夏蝉をひたすら追いかけて、
日が暮れるまで遊びまわったのは何時の日だっただろう。
 人の目など気にせずに、
がむしゃらに走りまわったのは何時の日だったか・・・。

確かにあった過去の日が、遠く霞んで見えるのは
 今のあたしが、変わったせい?

 決して時間を戻したい訳じゃない。
決して今が不幸だという訳でもない。

 ならばどうして、過去を思うとこんなに寂しくなるのだろうか。
理由はとっくに分かっていた。
分かっているのに、たった1人ではどうする事も出来ないだけ。

でも、そんなあたしを、救おうとしてくれる人がここに居た。







                       



1.


「走りたいな」

 陽の向きが、もう間もなくの夕刻を知らせる、そんな時間。あたしは不意に、独りごちていた。

  ここは、都内のビル郡から離れた場所にある、静かな公園。 近くの住人にしか知られていない小さな公園ではあるけれどあたしが幼い時によく遊んでいたという事もあって、訪れれば、いつもホッした気持ちにさせてくれるそんな貴重な場所だった。

 つい数ヶ月前、牧野家は、再びこの付近に越してきた。日々変わりゆく町並みの中で、殆ど変わらぬ佇まいで出迎えてくれたのは、唯一この公園だけだった.

 あたしは、片隅にあるベンチに腰を掛けて、流れ行く時間をゆっくりと過ごしていた。空が一面、橙に染まる夕刻。その中でひと際目立って、あたしの興味を引いたのは、先ほどから3on3を始めた、小学生ぐらいの男の子達。ついさっきまでは、この辺を飛び交う夏蝉を、延々追いかけていたのに。一体あの元気は何処から来るのか。細かいルールに拘らず、自由奔放にゲームを繰り広げるその子達を見入ってるうち、あたしがふと思い出していたのは・・・・・







 あの時のあたしは、絶対に負ける訳にはいかない事情を抱えていて、だからあの試合中も、それはそれは真剣で・・・でも今になってみれば、あの崖っぷちの3on3も、あたしにとっては懐かしくて良い思い出だ。もうあんなに真剣になって何かに立ち向かう事も無くなったし、あの子達みたいに、汗だくになる程遊びに夢中になる事もなくなってしまった。そのせいなのか、あの時の思い出は、あたしの中に潜んでる、感傷を呼び起こすものでもあった。それで思わず呟いてしまったのが、さっきの言葉。

走りたいな・・・

 あたしは今、1人でここに居る訳ではなかった。隣には道明寺が足を組んでぼんやりと座っていた。こんなに側に居るのだから当然、この呟きは道明寺にも聞こえていたようで。

「あ?走りたい?」

 道明寺はとても怪訝そうな表情で言った。あたしが呟いた言葉は、道明寺にとっては謎の言葉だったみたいだ。こんな時、普通なら『何でもない』と誤魔化すのだろう。独り言なんて大体、人に聞かせるものじゃない訳だし。でも、この時のあたしは、自分が思ってる以上に疲れていたのかもしれない。暑さも手伝ってかぼんやりする意識の中で「うん」と軽く頷いて、

「思いっ切り走り回りたい」

 そう言って、益々道明寺を混乱させた。

「何だよ、急に。気味わりぃな」

 こいつには、一体どう伝えれば分かってもらえるのかな。あたしが最近、ずっと抱えてるこの複雑な悩みはなかなか上手く言葉には言い表せない。

 つい先月、あたし達は婚約を発表した。それと同時にあたしの生活は急激に一変。毎日のように繰り返される、修業修行の日々。花嫁修業・・・そんな風に表現すれば、なんだかお花畑に居るみたいにとっても幸せな響きに聞こえるけれど、でも実際問題、あたしはまだ、その以前の段階で苦労している身の上だった。

 あたしがやっている修行は、花嫁になる為の、というよりは、先ずはこの、隠し切れない庶民臭さを払拭する為の修行だった。料理、裁縫、お茶、お花・・・これが世間の言う、普通の『花嫁修業』だというなら、あたしはまだ、全くそのどれにも触れてない。
あたしが嫁ぐその家は、日本では最大、世界中にも名を馳す道明寺財閥。その道明寺の世界とは全く正反対の世界に居たあたしには身に着けなきゃならない事が山とあって、その、沢山ある中で優先して身に着けろと言われているのが、

 正しい笑い方、正しい歩き方、正しい話し方だった。

 笑う、歩く、話す・・・

 その3つを、一刻も早く身に着けろと急かす周りの人達。これでは、赤ちゃん扱いされてるのと一緒のような気もするけれど、でもこれが大真面目な話なんだから、あたしだってやりきれない。まるで、今まであたしがしてきた事は、全てデタラメで、恥さらしなんだと言われてるようなもの。

 笑えば恥、歩けば恥、話せば恥。とにかくこれは大げさじゃなく、『息をしてる』だけでもダメ出しを受けてしまう毎日。

 道明寺のお母さんから選ばれた、様々なジャンルのスペシャリストの人達があたしの先生になって、その先生達が躍起になって進めているのが、『牧野つくし改造計画』だ。
まさか、『目指せ、エレガンス牧野』なんて、ダサいスローガンまでは誰も掲げてはいないだろうけど、でも、あたしへ掛ける言葉は大体皆、共通していた。

『もっとエレガントに!』

 ここ数日で、何度そう怒鳴られた事か・・・。

だから近頃、あたしは全く、『走る』ことが出来ないでいた。小走りぐらいならあるといえばあるけれど、たとえば、目的地に向かってがむしゃらに走るとか、電車の時間に間に合うように、駅の階段を二段飛ばしで駆け上がるとか、今までの自分には当たり前の事が婚約してからは無くなってしまった。

 それは、あたしにはSPがつくようになったっていうのも原因の一つにあるのかもしれない。婚約するに当たって、顔と名前が世間に公表されてしまった。そんなあたしを、危険に晒さない為の道明寺の心配りなのは重々分かってはいるんだけど、でもSPがつくって事は、それで却って目立つ事もある訳で。

 そしたらまさか、顔を汗だくにして、必死こいて走ってる無様な姿なんて誰にも見せる訳にはいかない。何処で誰が見てるか分からないこの界隈。

 もしかしたら、週刊誌の記者とかが、待ってましたとばかりにあたしを写真に撮るかもしれない。『誰がこんな凡人を?』って、笑い飛ばすかもしれないけど、本当に実際に、怪しい記者と鉢合わせしたこともあるから、決して、自惚れで言ってる事ではない。

 もし変な姿を記者に撮られたとして、その写真と一緒に飛び出す見出しって何だろう。ちょっとだけ、それを想像した事がある。

 『財閥御曹司の婚約者、ご乱心か!?出発間際の電車を追っかけ大暴走』

 それからもし、その記事を道明寺のお母さんが見たら、というのも想像した事がある。これは容易に想像がついた。 

『あなたには自覚が全く足らないわ』

 冷たい氷のような眼差しで、そう言い放つ鉄の女の声が、今にもリアルで聞こえて来るようだった。

 だからあたしは走れなかった。どんなに慌ててた時にでも、皆が言う、『エレガントに』という言葉に縛られて。


「はぁ〜あ」

 色んな事を思ったら、ついつい零れた重い溜息。それがまた、道明寺には気になったのか、「どうした?」すかさず尋ねられた。

「何かあったのか?」

 あたしに元気が無ければない程、必ずと言っていいほど気にかけてくれる。こいつだって社会人1年目なのだから、とても大変なはずなのに、その愚痴は一切あたしに零したりしない。そればかりか、たとえ、自由な時間が取れなくても、こうして、ちょっとの空いた時間をあたしと過ごしてくれる。

 高そうなグレーのスーツを着ている道明寺は、正直言って浮いてる。けれど、これからまた仕事があるから、窮屈そうで暑そうなそのスーツはどうしても脱げない。そんな道明寺の前であたしが溜息を吐くなんて、本当はやってはいけない事なのかもしれない。

 あたしの修行なんかよりも、こいつの仕事の方が遥かに責任が重くて、心身ともに疲れる事も多いんだろうから、どちらかというと、あたしがいこいつを労ってやらなくてはいけないのかもしれない。なのにあたしは、逆にこいつを心配させて・・・。

 でも道明寺は、全くそんなあたしを責めたりはせずに、2人にとっての貴重な時間を1秒たりとも無駄にはしないと、ちゃんとあたしの話しを聞こうとしてくれた。それが良く分かったから、だからあたしも、この時間は大事にしたくて、本当の事が言えなくなってしまった。このせっかくの時間を、愚痴なんかで潰したはくないから。それよりも、道明寺と楽しい話をしていたい。きっと、あと僅かの自由時間だから、こいつに十分に気分転換をさせて、それから仕事へと送り出してあげたい。

 そう思って、「何でもないよ」と、あたしは、道明寺に明るい笑顔を見せた。

「それより、何時も時間無いのに、会いに来てくれてありがとね」

 道明寺が優しくしてくれるから、あたしも何時に無く、素直に「ありがとう」が言える。婚約してからの道明寺は、あたしを幸せにする為にと、仕事に対してにも、自分の両親に対してにも、凄く真剣に向き合うようになったし、その傍らで、あたしの事もとても大切にしてくれていた。だから『ありがとう』という言葉以外、なんにも出て来ない。

 意地っ張りのあたしだから、なかなか感謝の気持ちを言葉にする事が出来ないけど、今は言えるチャンスなのだから、しっかりとあたしの気持ちを伝えたい。だからもう一度、

「ほんとにありがと」

 心を篭めてお礼を言った。

 あたしの横で道明寺は、妙に落ち着かない顔をしていた。それはきっと、あたしが珍しく殊勝な態度に出たからだろう。

「お、お前に礼言われっと、この辺がむず痒くなんだよ!」

 って、首筋を指で掻きながらそっぽを向いてしまった。そっぽ向いてるのに、

「お前に会わねぇと俺が調子が狂っちまうんだよ」

 言ってる言葉は何だか矛盾していて、それでいてあたしを恥ずかしくさせる言葉で・・・。だから今度は、あたしがよそに顔を向けてしまった。顔が熱いのを、こいつには絶対ばれたくなかったから。 

 ところが何故なのか、あたしがこうして一歩引くと、先に他所向いた筈のこいつが、一歩歩み寄って来る。しかも、勝ち誇ったような顔をして。きっとこいつは、あたしが今の道明寺の言葉で動揺してるのに気がついている。 

 それがとっても悔しくって、何とか平静を保とうとはしたけれど、あたしも相当不器用なのか、全く自分の感情を落ち着かせる事が出来ず、そんな時に、唐突に唇が奪われてしまったものだから、心臓が、壊れたようにドキドキと、激しい鼓動を打ち始めた。

 抗いたい気持ちは確かにあって、なのに、それに反してあたしの体は、道明寺の思うが侭にされていく。

「こんなところで・・・人に見られるでしょ」

 道明寺のペースに呑み込まれたのはあたしなのに。今のキスだって、全然嫌じゃなかったのに。出て来る言葉は、どうしてこんなに可愛くないのか。

 元気に3on3をやっていた少年達は、もう飽きてしまったのか何処かへ去ってしまっていて、だから、今この広場にはあたし達だけだっていうのは、とっくの昔に知っていた事なのに。

「フン、だったら逃げるなり暴れるなりすりゃあ良かったじゃねぇかよ」

 そう指摘されても、何も返せない。本当にこいつは意地悪な男だ。絶対、焦ってるあたしを楽しんでるに違いない。顔を真っ赤にして俯いてるあたしを、一体どんな顔して見ているんだろうか。きっと恨めしい程、締まりの無い顔をしてるのだろう。あまりに軽く想像がついてしまって、本当にこの場から逃げ出したくなってしまった。あたしはこういう空気がとっても苦手だから。でも、わざわざあたしから逃げ出さなくても、この時間には、直ぐに終わりが来てしまう。

 ポンと頭に乗った道明寺の大きな手。

「じゃあ、俺そろそろ行くわ」

 そう言って、ベンチから立ち上った道明寺に、あたしは、急激に寂しい感情に囚われてしまった。

 少し遅れてあたしも立ち上り、道明寺の顔をチラリと見上げると、そこには本当に優しい表情があって、「またな」とそっと笑ってくれた。その言葉がまた、寂しいこの感情を煽って、あたしは、「うん」としか言えなくなってしまう。 

 本音を言えないときのあたしを、一瞬で気づいてしまう道明寺は、決してそれを見過ごしたりしない。今度は、少し長めのキスで、あたしを慰めてくれた。

 あたしは、ちゃんと道明寺に愛されている・・・

それを感じられるだけで、どうしてこんなにも幸せなのだろうと思う。きっとそれは、あたしも道明寺を愛してるから。

 道明寺にこうして傍に居てもらうだけで、本当にどんな事でも頑張れそうな気がした。以前とは違う生活を強いられてはいるけれど、道明寺は、それに負けない力をくれる人だ。だからあたしは、もう弱音はもう吐かないと、自分が思う最高の笑顔で、「またね」と道明寺に手を振った。

 お前は特別な事しなくても、笑ってくれてりゃそれでいいんだよって、何時だって、そう言ってくれるから・・・。


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