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 帰りの道のりは、途方もなく長く感じた。多少道が混雑していて、バスがのろのろとしか進まなかったということもあるけれど、大きな理由はやはり、隣に座る彼女との間に漂う、何ともいえない空気のせいだろう。行きと同じように、彼女は窓側に座り、俺は通路側に座る。空いている車内――逆転の大チャンスで球場を出てくるファンなんて、俺らくらいしかいなかったから――を見て、離れ離れに座ろうとも思ったけれど、それはあまりにもやりすぎのような気がしたから。それに、バスが駅に到着し、扉が開いたと同時に牧野サンが駆け出す――というよりも、逃げ出すかもしれないとも思った。彼女にとって、できれば触れたくない話題――というよりもむしろ、逃げ出したい話題であることは必至だ。だからって、ハイそうですかと引き下がれるほど俺には余裕がない。

 昼間取ったパンダを膝の上に置き、ずっと窓の外を見てる牧野サン。時折、ちらちらと様子を伺うけれど、硝子に反射した彼女は俯いたままで、視線を合わせることはできなかった。一体、今彼女は何を思い、何を感じているのだろう。偶然とはいえ、俺としてしまったキスのことだろうか、それとも、ドウミョウジと見に行った野球のことだろうか。なかったことにしようとしたくらいだから、俺のことなんて考えてないだろう。いや、考えてたとしても、きっといいようには思っていない。

   
 
足をだらりと伸ばして、大きく溜息。行きのバスと帰りのバス、同じ『バス』なのにどうしてこうも違うのだろう。朝のこととか、ホークスタウンでのこととか、牧野サンとしたこと、牧野サンと交わした会話を、何度も頭の中で反芻する。『いつも意地悪な人なら一緒に出かけない』って言った後、顔真っ赤にしてそっぽ向いちゃったのに。人形取れたとき、すっごく嬉しそうだったのに。2人で顔並べて、プリクラ撮ったのに・・・

 いくつかの交差点といくつかの停留所を過ぎ、『次は西新パレス前』と、バスのアナウンスが入る。


「・・・ここで降りる」

「・・・わかった」


 最初で最後の、バス内での会話。腕を伸ばせば十分に『降ります』ボタンに届く距離ではあったけれど、それでもし牧野サンに触れたりしちゃったら、きっと思い切り体をびくつかせて、警戒して俺を見るだろうから。彼女が窓の横にある小さなボタンを押すと、『次停まります』と、鼻にかかった少し間抜けな声が車内に響く。それは閑散とし、薄暗いバスにはひどく不似合いで、なんだか滑稽だった。

 速度を落とし、バスがバス停に入る。停留所には、このバスに乗る客がちらほら並んでて。プシュー・・・と、エアーの音を響かせながら、扉が開く。小銭を料金入れに滑らせながら、テンポ良くバスを降りた。続く牧野サンがバスからちゃんと降りたのを確認して、バスに乗り込むときにそうしたように彼女の手をぎゅっと掴んだ。一瞬だけびくりと肩が震えたのがわかったけれど、逃げられないってわかったのかな。彼女の顔を見ると、不安そうな、でも挑むような視線で俺を見返した。でも、少しショックだ。どうして憎いものを見るような視線を、俺に向けるんだろう。・・・まあ、確かに敵かもしれないけど、今からは。

 ケータイの時計を確認すれば、丁度8時半。10月ともなれば外は結構寒くて。一瞬だけ、ぶるっと身震いしてしまった。どこかに入ってゆっくり話を・・・なんて余裕は、時間にも自分の気持ちにも、ない。

 地下にもぐり、切符を買い、タイミングよく滑り込んできた地下鉄に乗る。電車特有の、体に響く耳障りな音。いつもなら鬱陶しいことこの上ないけれど、今日だけはありがたいと思った。会話もない上に、雑音すらないという静寂は、今最も感じたくないものだったから。


「・・・まだ、時間いいよね、帰りは送るから。室見川、少し歩こう」


 さほど混んではいない車内。でも、手をつないだまま座る気にもなれず、牧野サンには少し悪いと思ったけれど、先頭車両に乗り込み、入り口付近に立つ。運転席を区切る壁に体を預け、彼女を見ないままポツリと言う。


「・・・・・」


 あそこなら人通りもあまりないし――せいぜい、夜のランニングマンと犬の散歩をする人だけだろう――、寒さをしのげる東屋もある。静かな水面を見ながらなら、熱くなりそうな頭も、冷める・・・まではいかなくとも、せめて沸騰せずにはいられるだろう。

 西新から室見まではたった2駅、時間にすれば約5分。窓の外の景色・・・と言っても、同じようなコンクリートの壁が流れていくだけだし、何より車内が明るすぎて、外なんて見えない。窓ガラスに反射する車内は、遊びつかれて眠ってしまった子供や舟をこぐオジサン、彼氏の肩に頭を預ける彼女・・・っていうの?とにかく仲睦まじそうなカップルなんかがいて。他の乗客に俺ら――手はつないでるものの、お互いを見ようともせず、言葉も交わさず、開いた席に座ろうともしない――はどう映っているんだろう、と思った。深刻な悩みを抱えたカップルに見えるか、それとも、ケンカして気まずいけれど、仲直りしたいカップルに見えるのか。どちらにしても、俺らが実は付き合ってないと見破れる人はいないだろう。だからどうというわけではないけれど、『騙している』という感覚は、少しだけ小気味いい。そして、どこか後ろめたい。そんなことを考える自分がなんだかバカバカしくなって、握っていた彼女の手を、そっと離した。

 手を離し、もし牧野サンがそのまま帰ってしまったら、彼女にとって俺はその程度の人間だった、そう思おうと思っていたけれど、彼女は地下鉄を降りた後も俺の後に続いてくれて。縦に並びながら室見川まで歩く。途中、自販機でコーラ――持ち歩けるように、ペットボトルのやつだ――を買う。


「何か飲む?」

「・・・いらない」


 目的地に到着するまで、俺たちが交わした言葉はこれだけ。たった、2言だけ。空はもうすっかり暗くて、月と星が出ていて、でも街灯や街の灯りでほとんどその姿を見つけることができなくて。ふと、思い出した。初めて亜門の店に行ったときのこと。あの時はもう少し遅い時間だったから、街灯だけしか邪魔をするものがなかったから、月も星も良く見えたっけ。返事はなかったけれど、牧野サンは俺のメール信じて、窓を開けて空を見てくれた。それを聞いただけで、嬉しかった。


「・・・・・草野くんがくれたメール、まだ取ってあるんだ」


 牧野サンが突然足を止める。近場のベンチにぬいぐるみとメガホンをポンと投げ、自分も乱暴に座った。一瞬戸惑ったけれど、1人で先に進めるはずもなく、だからといって隣に座ることもできず、だらしなくその場に立ち尽くしてしまう。そして、彼女が言った『メール』というのが、俺が思い出していたそれと同じものだと気付くまでにかなりの時間がかかった。


「まだ起きてる?星綺麗だよ。たったそれだけだったけど、すごく嬉しかった。古いメールはいつもすぐに消しちゃうけど、これだけは保護かけて消さないようにしてる」

「・・・・どうして?」


 どうしてそんなこと――メールを大事に取っておいたりするの?どうしてそんな話を俺にするの?どうして、そんな顔するの?言葉をつむぎだす牧野サンは、どこか楽しげで、でもどこか悲しげで。さっきみたいに尖ってなくて。臨戦態勢だった俺も、その表情に毒気を抜かれる。


「・・・どうしてだろうね、自分でもわかんない」


 理由なんて、きっとないんだろうけどね・・・・と言葉を続け、牧野サンが立ち上がる。両手を頭の上で組み、ぐっと伸びをして『つかれたぁ・・・』と小さな声で呟いた。その姿をぼんやり眺めていたけれど、ふと我に返って、今まで牧野サンが座っていたベンチに腰掛ける。右手の中のコーラのフタを開けて、喉を鳴らしながら飲むと、心地よい痺れが喉を襲った。


「・・・ねえ?」



 くるりと振り返り、彼女が言う。そしてその表情はずっとずっと前、初めて彼女を見た日と同じ表情で。あの頃、丁度散り際だった桜のように、儚く、そして悲しい笑顔。緊張が俺を襲って、ごくりと息を飲む。ゆっくりと体の向きを変えながら、その笑顔のまま、『昔話、してあげようか?』と言う。


「なんかね、疲れちゃった・・・今日のことじゃなくて、今までのこと。誰にも言えなかったことや、誰にも相談できなかったこと。もう、1人で抱え込むの、結構辛いんだ・・・」


 そんな彼女を見て、ああ、そうなんだ、もう疲れちゃったんだ・・・と、純粋に思った。誰にも言えず、1人で我慢してたから、あんなに苦しそうな儚い笑顔をするんだ・・・と。

 俺に話すことで彼女の肩の荷が降りるのなら、少しでも疲れが癒えるのならそれでいい。こんな牧野サンを目の前にしてまで、さっきの怒りを持続させて彼女を攻撃するなんて・・・俺にはできない。彼女の目を見て、小さくうなずく。すると『ありがとう』と笑いながら、俺の隣に腰を下ろす。その時、彼女の頬を伝わったものを見逃したりしなかった。


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                    BGM♪スピッツ:恋のはじまり