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 少し歩こうか、と提案したのは牧野サンだった。室見川の川原――歩きやすく舗装されているけれど――を、2人並んでのんびりと歩く。右手には飲みかけのコーラ。首には、牧野サンのメガホン。そして彼女は、クマ・・・じゃない、パンダのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら。

煌々と明るい住宅街を抜けたこの川原には、等間隔にある街灯以外に、月と星だけが俺たちを照らしていて。ゆらゆらと揺れる水面に反射する月は、風とともに絶えず形を変えて、少し滑稽で少し淋しかった。


「昔むかし・・・ってほどでもないけどね、女の子がいました。彼女は親元を離れ、遠い遠い場所で暮らすことになりました。知っている人は、彼女をその場所へ連れてきてくれたお兄さんだけ。右も左もわからなくて、寂しさと緊張でいっぱいでした・・・」


 そう言葉をつむぐ牧野サンの声は、いつもより少し小さく掠れていた。早く・・・と先を促すこともできず、ただ、うんと頷いて次の言葉を待つ。俺にはそれしかできない。


「そんな彼女に、1人の男の子が声をかけてくれました。彼は優しくて、でも少しおっちょこちょいで、人にだまされやすくて。・・・だまされやすい・・・って言葉は語弊があるけど。何ていうのかな・・・嘘を信じやすいっていうのかな・・・それで動揺すると大きな目がこれ以上なくきょろきょろ動いて・・・一緒にいるだけで、見てるだけで楽しい人でした。最初はただのクラスメイト。でもある日、彼の意外な一面・・・彼がものすごく落ち込んで、この室見川の川原に座って、真剣に悩んでる場面に出くわして・・・彼女は、どうにかして彼の役に立ちたいと思いました」

「・・・・・・」


 それって、俺のことじゃん。俺と・・・牧野サンのことじゃん。ゆっくりと歩いていた俺の足が、ぴたりと止まる。どうしてこれが昔話なわけ?全然昔じゃない、っていうようりも、むしろ現在進行形じゃないのか?『昔話』と定義した彼女の気持ちが、全くわからない。牧野サンの足取りは変わらず、パンダをぎゅっと抱きしめたままゆっくりと進み続ける。仕方ないから、俺もその後に続いた。


「大して役にも立てなかったのに、彼は笑って『ありがとう』って言ってくれて・・・彼女はとても嬉しかった。それから・・・少しずつ彼のことが気になり始めたの」

「それって・・・・」

「でもね・・・」


 俺の言葉を遮って、牧野サンが大きな声で言った。ゆっくりと振り返って笑う・・・けれど。無理やり作った笑顔は、この暗さでもわかるくらいに引きつっていて。結局、俺は言葉を続けられなくなった。彼女の声を、ただ待つ。


「・・・彼女はね、魔女に呪いをかけられてたの」

「・・・呪い?」

「うん、もう二度と、人を好きになることができない呪い」


 一瞬、牧野サンが何を言っているのかわからなかった。ずっと前に聞いた亜門の話にも『魔女』が出てきたことを覚えている。でもそれはあくまでも何か――この時は、ドウミョウジの母親だった――の形容に過ぎない。それなのに。


「・・・そんなもの、あるわけないじゃん」


 呪いや魔術、魔法なんて言葉、ゲームや物語の中にしか存在しない、存在するはずがない。もしあるとすれば、それは心の呪縛だ。何かを強く思いすぎて、何かを怖がりすぎて、本来ないものも『ある』と思い込んでしまう。本来あるものを、『ない』と思い込んでしまう。ただそれだけだ。


「うん、あたしもそう思ってた・・・でもね、ホントにあるんだよ。経験しなきゃ、これはわかんない」

「・・・・あるわけ、ない」


 もう一度、その言葉を繰り返した。俯いて足元を見ると、小さな小石が落ちていて。しゃがんでそれを広い、川に向かって思い切り投げた。ポチャン・・・と重い音がして、水面に映る月が形を無くす。しばらくゆらゆらと揺れた後、また丸い形に戻った。

 例えばそんなものなんだと思う。同じものに少し手を加えたら、全く別のものに見えてしまって。それは視覚の錯覚。意識の錯覚。同じだけれど違う『何か』に時には怯え、時には怒りを覚え、そして本物を見失う。だから、牧野サンの言う『呪い』も、そんなものに間違いない。


「・・・例えばね」


 手近なベンチを指差し、座ろうか・・・と彼女が言う。うんともううんとも声に出さず、俺は乱暴にベンチに腰掛けた。石製のそれは言うまでもなく硬くて、座った瞬間の衝撃が、少しだけ痛い。その後ジーンズを通して伝わってくるものは、石の冷たさだ。少し湿っぽいそれは、嫌悪さえ感じさせる。


「例えば、草野くんが女の子と付き合ってて、別れたとするじゃない。それで、他の女の子の事好きになりかけた。その子と楽しく話した夜、夢を見たらどう?」

「・・・夢?」

「うん。夢。昔付き合ってた彼女が、血の涙を流しながら自分に呟くの。『草野くんなんて知らない、草野くんなんか知らない・・・』って。そうかと思えば、突然『アイシテル』とか『ハナレタクナイ』なんて言いながら泣き出したりして・・・・」

「・・・もしかして・・・ドウミョウジのこと?」


 思わず、その言葉を呟いた。一瞬びくりと肩をすくませた彼女は、ゆっくりと俺を見て、知ってたの?と笑った。


「亜門に聞いた?」

「・・・半分は。もう半分は、今日の雑誌で・・・」

「雑誌?」

「父さんが毎月読んでる雑誌に、たまたまそいつが載っててさ・・・城南祭の買出しで、牧野サンがそいつの顔見て態度変えたの覚えてたから・・・で、その写真と亜門がそっくりでさ・・・ちょっと、ずっと気になってた」


 自嘲気味にへぇ・・・と笑う。あいつも有名になったものだね・・・と。


「記憶力、いいんだ・・・」

「いや、偶然だと思う」


 最後は尻切れトンボ。自分でも聞き取れないくらいに小さな声に変わった。自分の足元じっと見つめて、次の言葉を探す。牧野サンとおそろいにしたくて、少ない小遣いやりくりして手に入れたアディダスのスニーカー。彼女は白で、俺はモスグリーンで。彼女に少しでも追いついたと思ったけど、違うみたいだね。彼女がコンバースのスニーカー履いてるからかな、そんな風に思ってしまった。追いついたつもり、でも、また離された。そして俺は、また追いかける。


「・・・ずっと、気になってたんだ。牧野サンいつも元気だけど、時々すげー悲しそうに笑ったり、辛そうに俯いたりして。初めて会ったときも、宮田とケンカしたときも、花火のときも、今日も。もう・・・わかってると思うけど、俺、牧野サン好きだから・・・・そういう表情されると、ちょっと・・・辛い」


 言葉を選びながら、ぽつりぽつりと低い声で呟く。言葉の間に、彼女は『うん・・・』と何度も小さく頷いてくれたから。ちゃんと話を聞いてくれてるのがわかって、すごく嬉しいと思った。


「牧野サンが一緒に野球行くことオッケーしてくれて、すげー嬉しかった。野球前に一緒に出かけられるのも、めちゃくちゃ嬉しかった。だから・・・前見に行った野球のこと隠されて、何かめちゃくちゃ腹立ってさ・・・自分勝手なのはわかってる。だって、牧野サン俺のこと好きなわけじゃないし、付き合ってるわけじゃないし・・・でも、なんかやりきれなくなっちゃってさ・・・あんなことした。ごめん・・・」


 突然キスしたことが悪いとは端から思ってない。でも、それで彼女を傷つけたのは事実だ。ここでこんな風に、自分の古傷穿り返すようなことさせちゃって。それに対しては、ものすごく悪いと思ってるから・・・・だから、謝った。


「・・・あたし、嫌じゃなかった。そりゃ突然だし、予想もしてなかったから驚いたけど・・・でも、嫌じゃなかった」


 むしろ、嬉しかったかもしれない・・・とうつむく彼女に、どうして・・・と声をかける。嬉しかったんなら、『なかったこと』にする必要なんてどこにもないのに。嬉しかったんなら、どんな形でもそう伝えてくれればよかったのに。

 そう詰め寄ろうとしたけれど。


「でもね・・・・」


 いつか見た、強い意思を象徴する目で俺を睨む。それは挑戦的で、それでいてどこか投げやりで。ゆっくりと小さな声で、でもとてもはっきりとした声で、彼女は言った。



「草野くんのことは、好きにならないから」

と。

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           BGM♪スピッツ:ロビンソン