「・・・・・」


 『上手く追い払えたよ』の言葉と一緒に、安藤さんは両手で『マル』を作った。それを見て、ふぅ・・・と安堵の息をつく。どうやら奥田さんもその友人も、エスカレータを駆け下りて行った――通行人にとっては至極迷惑な話だが――ようだ。それでも彼女に対しては慎重にならなければ、と、大きく息を吸って、深呼吸を5回。それから辺りを注意して見回して、ようやくその場を動く。それでも、一歩足を踏み出す毎に左右を確認することは忘れずに。


「田村くん・・・挙動不審ですごく面白いんだけど・・・」

「だって見つかりたくないから。まだ下のフロアにいたら怖いし・・・」

「確かにそれはあるかも・・・『悪い子いねぇかーっ!』って」

「いや、それはなまはげだから・・・」


 本気で言っているのか、それとも冗談で言っているのか。時々安藤さんはわからない。冗談なら笑い飛ばせるけれど、本気だったら・・・それは失礼だと思うから。それに加え、奥田さんなら本気でやりかねない、という畏怖が、心のどこかにある。今彼女が背後に立ち、恨めしそうに『2人してあたしをだましたんですね・・・』などと言っても、驚きこそすれ信じられない、とは思わないだろう。そういう人種なのだ、彼女は。

 なまはげ発言に対し、ああそうか・・・と妙に納得したように頷く安藤さんは、やはり本気で言っていたらしい。そんな彼女に少し不安を感じながら、それでも助けてくれたことには変わりないから。『ありがとう』と伝えると、安藤さんは瞬時に顔を真っ赤にして、両手を勢い良くブンブンと振った。その様子はまるで草野のようで・・・申し訳ないけれど、腹の底から笑いがこみ上げる。


「いや全然。田村君を奥田の魔の手から助けるためなら、ホントあたしなんでもするし・・・って、まあできることには限度があるけど・・・」


 追い払ったりとか追い払ったりとか追い払ったりとか・・・などと言う。出来ることは彼女を追い払うことだけ、だということだろうか。でも、俺にとってはそれだけでも感謝だ。彼女を追い払える人間など、世界中を探したってそういないと思う。仁王立ちして声高らかに笑う奥田さんを想像して・・・またまた申し訳ないけれども、思わず噴出してしまった。それを勘違いした安藤さんは『あたし、変なこと言ったかな・・・』と不安そうな表情を浮かべて。それがまた、笑いをそそる。笑いのループ、もしくはエンドレスだ。


「・・・ごめん」


 ひとしきり笑った後、眼鏡を外して涙を拭う。まさか、草野やテツヤ以外でこんなに笑わせてくれる人がいるとは思わなかった。まだ、こみ上げてくるそれがおさまらない。流石の安藤さんも、ここまで笑われると癪に障るらしい。『もうっ!』と頬を膨らませて俺を睨む姿が、また笑いを誘う。


「笑わないでよー・・・」

「いや・・・ホント、申し訳ない・・・」


 眼鏡をかけながら、ふと思う。さっきの『テツヤ』で思い出したが。


「今日は1人なの?」

「ん?」

「安藤さん、1人で?」


 安藤さん、といえばすぐに連想するのは藤原さんだ。流石に朝の登校や授業中は違うけれど、昼休みはもちろん、授業毎に設けてある10分間の休憩時間すら、彼女たちは大抵一緒にいるのだ。だから休みの日もおそらくそうなのだろうと勝手に思っていたが・・・今日は、その姿が見当たらない。今だけ別行動をしていて、上の階――彼女も、俺や草野に負けず劣らず音楽が好きだから――にいるのかとも思ったけれど、そんな様子は感じられない。

 いつもユカと一緒にいると思った?と訊かれたので、素直に頷く。すると安藤さんは満足したようににっこり笑うと、今日だけは特別、と、ゆっくり大切そうに言った。いや、少なくとも俺にはそう聞こえた。


「・・・特別?今日だけ?」


 他人の事情に首を突っ込むのは苦手だし、失礼なことだと重々承知しているが、今の彼女の言い方は、とても気になって仕方が無い。口に出してから、俺らしくない・・・と後悔した。今更遅いが。しかしそんなことは少しも気にすることなく、安藤さんは相変わらずゆっくりした口調で続きを話す。やはり、先ほどまで奥田さんとやりあっていたとは思えない。人間は、時と場合によって変われるものなのだ・・・とどうでもいいことを思った。


「ホントは一緒に赤本買いに来る予定だったんだけどね・・・ユカから『いけなくなった』ってメールが入って、突然中止」

「そうだったんだ・・・」

「家の急用とか書いてあったけど、多分三輪くん絡みだと思うんだよね・・・」

「・・・テツヤ?」


 藤原さんにテツヤが結びつくのはおかしくない。いや、テツヤが藤原さんに無理やり絡み付いているというのが正しいんだろう。2人の関係は誰が見たって飼い犬と飼い主・・・いや、サーカスのライオンとその指導係だ。もちろん、前者がテツヤで後者が藤原さん。テツヤが尻尾を振って――もちろん、目の錯覚だ――藤原さんの後を追いかける姿は、男の俺からしても健気だと思う。よくもまあ、プライド捨ててそこまでできるな・・・と――先に言っておくが、けなしている訳ではない。もちろん、褒めているつもりもないけれど。普段は人当たりも面倒見も良い彼女だけれど、テツヤに対してだけはクールを通り越してドライだ。本気でテツヤを鬱陶しいとおもっているのか、それとも単なる照れ隠しなのか。その筋には全く疎い俺には皆目検討もつかないけれど。


「今日、つくしと草野くん、2人で出かけてるでしょ?」

「・・・うん」


 そう、本当だったら俺が草野と行くはずだった日本シリーズを見に。ふとそんな言葉が頭に浮かんで、少し恥ずかしかった。今日のことは、牧野さんには何の非も無いのに。彼女に八つ当たりするのはお門違いだ。その怒りは、義務を怠った両親とそれを黙認した姉貴に向けられたもの。


「みんなでミスドによって、その話で盛り上がったのって覚えてる?」

「そりゃ。何年も前のことじゃないし・・・」

「そのときね、なーんか三輪くんの様子がおかしかったんだよね。ユカのことちらちら横目で見て、妙にそわそわしちゃって」

「・・・そういえば」


 何か言いたいことがあるのだけれど、タイミングを狙っているうちに言いそびれて、妙に焦って・・・という一連の動作をループしていたテツヤを見て、『妙にそわそわしてるけど、腹でも壊したか?』と不思議に思った記憶はある。しかし、今考えればこれほど分かりやすい答えはないだろう。つまり、テツヤも誘いたかったのだ。藤原さんを。それが野球かどうかは分からないけれど、草野と牧野さんが2人で出かけるのなら、自分と藤原さんも、もしかしたらそうできるんじゃないか、と。


「案外、2人で天神にいるかもな」


 その言葉に、安藤さんは何度も頷く。しかも、そうあって欲しいかのように、妙に真剣な表情で。彼女がそんな表情を浮かべるということは、藤原さんにとってもテツヤは邪魔な存在、というわけでもないのだろうか・・・とまた下世話なことを考えて・・・軽く頭を振ってその考えを振り払う。余計な詮索をするのは、俺の守備範囲外だ。


「ところで、田村くんは1人なの?」


 急な話題転換。でも助かったと胸をなでおろす俺がいる。安藤さんは相変わらずニコニコしていて、何故だか分からないけれど、少しだけ救われたような気がした。気を取り直して『そう』と答えると、何かを含んだ声でふぅん・・・と言った。


「あんまり長居しない方がいいと思うよ。奥田、戻ってくるかもしれないし」


 その名前を耳にした瞬間、また嫌な汗が背中を伝う。もう、さっきみたいな背筋の凍る思いはしたくないし、安藤さんだって、もう一度同じことが起こっても、さっきと同じようにはかわせないだろう。


「・・・戻ってくるかな?」

「よく推理小説なんかで言ってるでしょ?『犯人は現場に戻る』って」

「・・・いや、彼女一応悪いことはしてないと思うから・・・」


 俺を必要に追いかけることは、もちろん気持ちの良いものではないけれど。そしてやはり真面目な顔してそんなことを言う彼女に、笑わずにはいられない。けれど。笑ったついでにこんな言葉が口から出てしまうとは、流石の俺も予想できなかった。


「もしまだ時間大丈夫だったら、少し付き合わない?」


 安藤さんも目を見開いて驚いていたけれど、俺も負けないくらいに驚いていたと思う。そして、驚いて固まる2人を見他の人達は、さぞかし不思議な2人だと思ったことだろう・・・





BGM♪スピッツ:空も飛べるはず:part2
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