安藤さんは俺なんかよりずっと大人だと思う。驚いた表情を、すぐにいつもの柔和な笑顔に変えて『いいよ』と言った。困惑も恥ずかしさも、全て吹き飛ばしてしまうほどの自然でありふれた笑顔で。おかげで俺も落ち着いて、ああ、そういえば昼に広島を出てから何も食べていないな・・・と気付くことができた。一応、姉貴が『途中で何か食べて行きなさい』と小遣い――と言っても、2000円なのだが。しかも出所は『お兄さん』の財布だ――をくれたけれど、使う気にはなれなかった。もちろん、その金が嫌なわけじゃない。むしろ『ラッキー』と思った。けれど、あのときの暗く沈んだ気分では、とても食事どころじゃなかった。

 姉貴の部屋から駅まで、電車を使えばものの十数分で着くはずなのだが、何故か今日は歩きたい気分だった。一歩一歩足を踏み出す度に、その場所へ重たい気持ちを少しでも置いていくことができたら・・・と思ったけれど、それどころか一歩一歩踏みしめる度に、気持ちは重くなっていく。きっとそれは、両親の待つ家が少しずつ近くなっていくから。結局、電車を使えば2時前には福岡に着くはずだったのにこんな時間になってしまって、その上、空腹すらも忘れていた。


「どこに付き合う?」


 安藤さんに聞かれ、ふと我に返る。そして相変わらず穏やかな彼女を見て、何故か言葉が詰まった。



「別の本屋さんで参考書選ぶ?それとも、どこかで勉強する?」

「・・・いや」

「じゃあカラオケとか?・・・ちょっと、受験生っぽくないかもだけど・・・」

「・・・俺、昼飯食ってないんだ・・・」


 何とか搾り出した声は、不思議なほどに掠れていた。それが耳に届いた時、最初は自分の声とは思わなくて、次に安藤さんに不思議がられていないかと心配になって。ちらりと彼女を盗み見たけれど、やはり彼女はいつも通りだった。そして4時という時間になっても食事をしていない、ということに疑問を持つでもなく、『それはおなか空いてるよね・・・』と1人納得して、再びニコリと笑う。


「でも、晩ご飯までそんなに時間ないし・・・ファーストフードのお店、行こうか?」


 奥田に見つからないように、駅から少し離れたところの方がいいかな・・・と言いながら歩き始める安藤さんの背中を見ながら、俺も同じように歩き出す。1歩踏み出す足は、まるで姉貴のアパートを出てきたときと同じように重かった。そして足を踏み出す度に、今の出来事で忘れかけていたことがひとつずつ脳裏に浮かび上がった。


「・・・どうしたの?」

「・・・いや、なんでもない」


 いつの間にか立ち止まってしまった俺を不思議がるように、安藤さんが振り返る。よほど不安そうな表情をしていたのだろうか、じっと俺の顔を覗き込んで、そして『大丈夫だよ』と言った。大丈夫だよ、奥田はまだいないから・・・と。最初、その意味がわからずに顔を上げて、そして彼女が誤解しているのだと気付いた。奥田が戻ってくるのではないかと心配になり、俺がこの場から動けなくなっているのではないか、と。


「でも、ずっとこのままここにいたら危険かも。犯人は・・・」

「犯人じゃないけど、現場に戻られたら厄介だよな・・・」


 彼女の言葉を遮ってそう言うと、今度は悪戯好きな子供のように、口の端をにやりとゆがめて笑った。つられて俺も笑う。笑ったら少しだけ気分が軽くなったような気がして、また足が重くならないうちに・・・と、彼女の後に続いた。

 天神南のファーストフードの店――人通りも多く店も混在しているので、万が一彼女とすれ違っても見つからないだろうという、安易な発想でそこに決めた。『木は森の中へ』というやつだ――へ行こうと決め、並んでエスカレータを降りる。いつも隣に立つ草野とは違い、安藤さんは背が低い。俺もそう高くはないけれど、それでも彼女の背丈は俺の肩ほどまでしかなく、何だか不思議な感じがした。いつもは横を向けばあるはずの顔がなく、少し視線を落とさなければいけない。そして、隣に立つ彼女は、俺に話しかける度に顔を少し上げる。普段とは違う目の高さに少し戸惑いながら、女の子と歩くということは、こういうことなのだ・・・と、少しだけ悟ったような気がした。今頃草野も、同じようなことを考えているのだろうか。・・・いや、あいつは舞い上がるばかりで、きっとそんな余裕はないだろう。もしかしたら、舞い上がり過ぎて途中で入ったコーヒーショップのトレイを派手にぶちまけているかもしれない。


「・・・今頃・・・」


 慌てふためいて自分がぶちまけたトレイの後始末をする草野を想像している――何だか、奴が乗り移ったようで嫌なのだが。第一、そういう妄想はあいつの得意分野で、俺の守備範囲外なのだ、何度も言うけれど――隣で、安藤さんがふと呟く。それはあまりにも小さな声だったから、俺にかけた言葉なのか独り言なのか定かではないけれど、聞こえてしまった以上無視はできない。気を取り直して『何?』と聞く。


「・・・今頃、ユカもつくしも、こうして誰かと一緒に歩いてるのかな・・・って」



 やはり独り言だったのか、顔を上げた彼女は少し恥ずかしそうな気まずそうな、複雑な表情を浮かべた。尋ねないのが正解だったのか・・・と少し後悔したけれど、今となってはもう遅い。『ああ・・・』と、あいまいに言葉を濁してから、どうしたら良いのかわからずに1人焦る。本人の口から直接聞いたわけではないが、安藤さんは、俺に好意を寄せてくれている、はずだ――自分で『彼女は俺のことを好きなのだ』というのは、あまりにも恥ずかしいからあえて別の言葉を使ったが、こうして言ってしまえば同じだ。今でもその気持ちが変わらないとするのなら、今の言葉を口にするのは、彼女も多大な勇気が必要だったのだろう。『ごめん』と謝ってみるものの、何がどうごめんなのか自分でもわからず、また、気が焦る。このまま会話が途切れてしまうのは本当に気まずいから。


「お、俺さ・・・昨日から広島行ってて、その帰りなんだ・・・」


 何とか会話を続けようと、必至で話題を探した。


「広島?」

「そ、広島。姉貴が広島にいてさ・・・」

「そうなんだ・・・お姉さんと仲良いの?」


 広島なんて遠いところまで遊びに行くなんて、よっぽど仲良しなんだね・・・と笑う安藤さんに、どう答えたら良いのかわからず、あいまいに微笑む。仲が悪いわけではないけれど、好んで遊びに行くほど良いわけでもない。今回だって広島に行ったのは、自分の意思ではなく両親の命令だ。けれど姉貴に会うと息苦しいし、言いたいことの半分も言えない。複雑な心中を知ってか知らずか、『仲良しで羨ましいなぁ』と安藤さんは小さく溜め息をつく。


「あたしも姉妹いるんだけどね・・・っても、あたしの場合は妹なんだけど。もう本当に最高に可愛くないの。今高校1年生なんだけど、勉強なんて全然しないし、『若いうちから手入れしなきゃ』とか言って、朝の忙しい時間ずっと洗面台占領するし、彼氏と遊びまくってるし・・・」


 頬を膨らませた彼女を横に、自動ドアを通る。カウンターで商品を注文――俺はハンバーガーとのセット、彼女はドリンクだけだ――し、それを受け取って2階へ移動する。その間も、彼女の言葉は尽きることがなかった。若いのに化粧臭いとか、両親に叱られると『あたしバカだから何言われてるのかわかんない』とかわすとか。それらのひとつひとつを姉貴と重ね合わせると、やっていることや言っていることは違えど、どこか重なるから面白い。


「受験勉強してても、隣の部屋から絶えずケータイの呼び出し音やら話し声やらが聞こえて、集中できないんだよ。何度文句言っても『あたしはあたし、お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ?』って言うし。勉強はあたしの意思でやってるんだから、それを気遣う必要はないなんて、家族としておかしくない?」


 うん、と頷きながら、昔――まだ実家にいた高校生の姉貴が言った言葉を思い出す。『勉強は自分の意思でやるもの。だから親に命令されたってやらないものはやらない。大学だって、自分の意思で行くもの。だから私は行きたい場所に行く』と。当時小学生だった俺はそれをものすごく恰好の良い、大人の発言だと思った。けれど、今はわかる。大人になりきれていない姉貴の、ただのわがままなのだと。ただ、未だに彼女をすごいと思うのは、『行く』と決めた大学に合格し、学費以外のほとんどを自分で働いて賄っていたことだ。もちろん、家賃や光熱費なんかも。それともう1つ、産まれてくる子供の手が離れたら、大学に戻るということ。結婚するのならやめてしまうと思ったけれど、自分で決めたことを簡単に覆すのは姉貴の道理から外れるらしく、何があっても卒業はする、腹の中でそう決めているらしい。


「毎日ケンカばっかり。ホントいやになっちゃう。今になって、やっぱり地元の大学狙うのはやめようかな・・・って考えちゃう・・・」

「・・・ケンカできるほうが良いよ。うわべだけ仲良くするよりも、ケンカできるほうがずっと良い」


 安藤さんの言葉を遮って、思わずそう呟いた。そして、何故そんな言葉が口から出てきたのだろうかと疑問に思う。急に胸にもやがかかったような気がして、ああ、前に一度こんな気持ちになったことがあるな、と思い出した。藤沢のマックに呼び出された日。自分の知らないところで話がどんどん進んでいって、自分だけ取り残されたような気がして妙に焦った。でも、今は逆だ。自分の気持ちがどんどん先走っていって、どこにたどり着くのかわからない。だから不安だ。でも、この気持ちはどこに向かっているのだろう。広島の姉貴へなのか、それとも自宅で待つ両親へなのか。理由のない焦りと不安で、自分が見えなくなりそうで。


「・・・何か、あったの?」


 適当な席――万が一のことを考えて、階段から1番遠く、見えづらい場所を選んだ――に乱暴に腰掛ける俺に、安藤さんが不安そうに聞く。そして、妙にとげとげしい気持ちの俺は、別に、と冷たく言い放った。そしてまた後悔だ。でも、すぐに謝れるほど俺は大人じゃないし、優しくもない。気まずさをごまかすために、ただひたすら話し続けるだけだ。


「俺ね、姉貴とケンカしたことないんだ。それはずっと仲が良いとか、俺が姉貴の事を目上の人間だって意識してるからだと思ってたけど・・・」


 違ったみたい、と正面に座る彼女を見る。不安そうな表情がさらに険しくなり、何だか、泣き出してしまいそうに見えた。


「・・・安藤さんの話聞いててわかった。俺、多分姉貴の事本気で嫌いなんだと思う」


BGM♪スピッツ:空も飛べるはず:part2
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