福岡を離れていたのはたった2日だけだけれど、見知った景色が見えると、心のどこかで安心する。駅に停まるため、少しずつ速度を落とす新幹線の窓から外を見ながら、つい数時間前まで繰り広げられていた姉貴との会話を思い出す。新幹線の扉が開いたのを見て、思わず安堵の息を吐いた。それと同時に、今から家に帰って、この2日間のことを両親に報告しなければいけないと思うと、少しずつ気持ちが沈んでいく。

 土曜日の朝広島に着き、姉貴のアパートに向かい、他愛のない話をして、姉貴がどれだけダンナ――姉貴は『ヒデオさん』と呼んでいた――を好きで堪らないか、ということを延々聞かされ、夕方、土曜日なのに仕事――中学の先生、しかも新任らしい。科目は英語だ――で、疲れた顔して帰ってきた『お兄さん』に地味に喜ばれ、3人で姉貴の作った料理を囲み、姉貴はつわりと疲れで再起不能に陥り、『お兄さん』は妙なハイテンションでビールを飲み続け、食事中にテーブルに額をくっつけて眠ってしまった。1人残された俺は、多少の疑問と多々の怒りを感じつつ、汚れた食器はシンクへ運び、残った料理にラップをかけ冷蔵庫に入れ、倒れた『お兄さん』を寝室へ運び、ソファでぐったりする姉貴に水を持って行く。まともに話をできたのはその数分間だけで、それも『ヒデオさんがどれだけステキな人で、おなかの子がどれだけ自分にとって大切か』という、一方的な姉貴の意見を聞いただけ。学生を妊娠させる奴が本当に素敵なのか?という疑問を投げかけたかったけど、その言葉は飲み込んだ。俺が言えたのは、父さんも母さんも心配してるから、姉貴から電話してやって、という『事務連絡』以外のなにものでもない一言だけ。これじゃ、両親に報告も何もあったもんじゃない。ただ『姉貴とメシ食って帰ってきました』じゃ、誰も納得しないだろ。  

 大きな溜め息と同時に席を立ち、白い乗り物から降りる。改札口に近づく毎に足が重くなっていく気がした。こうして歩き続けて地下鉄に乗って家に着けば、俺の帰りを首を長くして待っていた両親が、この2日間のことを根掘り葉掘り聞き出そうとするのは必至だ。けれど、俺には報告できることなんて何もない。『ろくに話はできなかったけど、一応元気だったよ』って、それだけ伝えて終わりなんて言ったら、2人揃って怒るだろうな。『そんな事、電話があった時点でわかってる。何のためにお前を行かせたのかわからない!』と、怒鳴られるかもしれない。このまま真っ直ぐ帰ってそう言われるのと、先延ばしにして後から言われるのと、普通に考えれば前者が得策だと思う、けれど、今回のことは1度言われたくらいじゃ納まらないだろう。きっと、夜も明日の朝も、母親の溜め息や父親の愚痴なんかを聞かなきゃいけないのだろう。そう考えたら・・・家に帰りたくない。なるべく遅く帰って、両親が寝静まった頃に帰って、明日の朝も顔合わせないように学校行って、このまま流してしまいたい、とすら思う。

 草野に電話をして、天神まで呼び出そうか・・・と思ったけれど、あいつは今頃、一世一代の大勝負――というのは大げさだ――で、牧野サンとヤフードームにいるはずだ。本当だったら、俺が行くはずだったのに。つくづく損な役回りだよな・・・と悪態をつきながら新幹線の改札を抜け、地下鉄の駅へと歩く。家に帰るにしても帰らないにしても、ここにいるよりも天神へ出るのがいい。その界隈へ行けば、模試の近いこの時期、塾帰りの奴らと偶然会うかもしれない。そうしたら軽く遊ぶことだってできるし、最悪誰にも出会わなくても、本屋へ行くなりCD見に行くなり、気晴らしでぶらぶらすればいい。

 えふカード――地下鉄専用カードだ――を改札に入れ、1人頷きながら地下鉄に揺られて、天神についたら時計は夕方の4時を回っていた。微妙に中途半端なこの時間、駅周辺をぶらぶらと歩いてみたけれど、見知った顔はなく。仕方ないから、紀伊国屋へ向かう。九大の赤本がそろそろ発刊されるんじゃないかな、なんて思いながら。俺もすっかり受験生だ。毎週楽しみにしている少年誌や、最近はまりつつあるドラえもんじゃなく、『受験生の友』が気になるなんて。

 参考書売り場にはたくさんの『赤本』が、所狭しと並べられていた。主要大学や全国でも有名な大学は見やすい位置へ、マイナーだったり北のほうにあったりする大学は本棚の上段、少し手の届きにくいところへ。探しているものは、もちろん赤本の中でもど真ん中に並べられていた。その周辺には福大や教育大なんかもあって。そこらの受験も考えている俺にとっては、ありがたい配列だ。その中の1冊に手を伸ばして・・・背中に、嫌な悪寒を感じた。そう・・・これは、近くに『彼女』がいる時によく・・・

 勢い良く後ろを振り返ると、遥か前方に見慣れた団子頭が。幸いにも、友人と仲良く話をしている彼女には、まだ俺の姿は目に入っていないようだ。家に帰るのは御免だけれど、ここで『彼女』に捕まるのはもっと御免だ。彼女に顔を見られないよう、本棚を見つめたまま足早にそこを去る。後ろ側の棚も受験用の参考書コーナーのはずだ・・・と、回り込んで逃げて・・・  


「きゃっ・・・」


 バサ・・・と、本が床に落ちる音がした。それと同時に胸に硬いものがぶつかる感触がして。驚いて床を見て、視線を上げて・・・目の前にいる人物に、俺は再び驚く。きっと、今の俺と同じような表情――目を見開いて、口は半開き、だ――で俺を見返すのは・・・安藤さんだった。




「あ・・・ごめん」


 落ちた本を拾い上げようとかがむと、安藤さんも同時にかがんで。手を伸ばしたところで、彼女の指に触れてしまった。こんなことでいちいち照れるのもガキ臭いと思うけれど、心臓がドキドキなるのだから仕方ない。安藤さんも小さな叫び声をあげて、ぱっと手を引いた。驚いて、思わず取ってしまった行動だろうけれど・・・少し、傷ついたような気分になるのは何故だろう。そんなことを考えながら本――数学のセンター対応問題集――を拾い、先に立ち上がった安藤さんに手渡す。


「あ・・・ありがとう」

「どういたしまして」


 そう答えた瞬間、さっきと同じ悪寒を感じる。その上、彼女の声までも聞こえる。


「何、突然走り出して・・・」

「今、田村先輩がいたんだって!」

「えー・・・いないじゃん、どこにも」

「いる!絶対いる!あたしの先輩スコープが間違ってたことなんてないもん!」


 どうやら俺が甘かったらしい。気付いてない、というのは都合の良い誤解で、彼女の目――というか、第六感には、しっかり気付かれていたようだ。ヤバイ・・・と感じると同時に、背筋に嫌な汗が流れ落ちる。このままじゃ絶対に見つかる。下手に動いたら、絶対に見つかる。いや、それはかなり避けたい。今このテンションで彼女に捕まったら、『人』として取り返しのつかないことをしでかしてしまいそうな気すらする。


「・・・田村くん、大丈夫?」


 よほど切羽詰った表情をしていたのだろう、安藤さんは俺の顔を覗き込んで、心配そうにそう言った。返事をしたいのは山々だけれど、ここで不用意に声を出すわけにはいかない。たとえ小さな声でも、彼女に聞き付けられたら・・・俺の未来はないかもしれない。

 元々、周囲に気配りのできる彼女。今日だって例外じゃなく・・・返事をしない――返事ができないことをすぐに察知して――というよりも、『悪魔の声』が耳に届いたのだろう――ぱっと顔を上げる。ジェスチャーで『もう1つ向うへ行け』と俺に言い、陳列してある参考書を適当に腕に抱え、彼女の声がする方向へ果敢に歩き出した。何をするつもりだ、と問いかけたい気持ちでいっぱいだったが、ぐずぐずしている場合じゃない。俺に指示を出したからには、何か良い案があるのだろう。安藤さん、ここは任せた・・・と心の中で叫びながら、彼女に指示されたように、もう1つ奥の列へと逃げ込んだ。

 様子を伺おうと、少しだけ顔を覗かせた瞬間、バサバサ・・・と大量の本が床に落ちる音がした。


「ごめんなさい!・・・・って・・・こんなところで何してるんですかぁ?」


 最初に聞こえたのは、あの悪魔の声だった。謝った、ということは、あの音は彼女の仕業ということ。じゃあ、落としたのは・・・


「あんたこそ、こんなところで何してんの・・・ってか、こんなところで走らないでよ。危ないじゃない・・・」


 そう、声の主は安藤さんだった。しかも、いつもよりも少し低い声で。『あんたがぶつかってきたんだから、拾いなさい』と言う安藤さんの声は、さっき俺を心配してくれたそれとは全然違って、正直少し怖かった。果敢に歩き出した理由も、無雑作に本を抱え込んだ理由も、ここにあったとは。怖かったけれど、彼女のおかげで、もう1つ奥の棚に逃げ込む姿を彼女に見られずに済んだわけで。かろうじて背中だけ見える安藤さんに、心の底から感謝した。


「拾ってる場合じゃないですよ!田村先輩、来ませんでしたか?」

「来ないよ」

「ウソでしょ?だってあたし見ましたもん、先輩の後ろ姿」

「見間違いじゃないの?」

「あたしが見間違えるわけないでしょ?レーダー働いてるんですから。先輩のことだったら、たとえ300メートル先でも、わかる自信あります!」


 ・・・それは勘弁して欲しい。全く、人に好かれるのは悪い気分じゃないけれど、この子の場合は例外だ。自分本位というか、人を省みないというか。立場が逆だったら、彼女はどう対応するのだろう。そこのところ、一度詳しく聞いてみたいと思う。もちろん、それを実行できるような気力も度量も、俺は持ち合わせていないけれど。


「隠さないでくださいよ。田村先輩、いたんでしょう?」


 尚もしつこく食いつく彼女に、安藤さんの溜め息。何故ここで溜め息をつくのか、そんなことは考えたくないけれど、考えられる答えはひとつで。


「・・・いたよ、確かに」


 その言葉が聞こえた瞬間、もう少し移動したほうが良いんじゃないかと思った。本棚を上手く使って逃げれば、上手くいけば逃げ切れるに違いない。そう観念してまさに動こうとした時。


「でもね、もう行っちゃった。あんたの声が聞こえた瞬間に」


 安藤さんの声に、もう一度だけそっと覗いてみる。棚が邪魔で、微かにしか見えないけれど、その手が指す方向には・・・エスカレータがあった。


「あんたがあたしにぶつかって、ギャーギャー騒いでる間に、田村くんはエスカレータで下に行っちゃったよ。もう、今頃ビルの外に出ちゃったんじゃないの?」

「・・・酷い!あたしから田村先輩を引き離すために、こんな茶番を打ったんですね!!」


 悲痛・・・とは程遠い彼女の叫び声。引き離すというのは明らかに間違っている気がするが。これ以上覗き続けるのは危険だと判断した俺は、一瞬身を隠す。けれど、その後の状況を知るのはとても簡単で。『アミ!』と叫ぶ声が聞こえたから、おそらく彼女はエスカレータを一目散に駆け下りていったのだろう。おそらく、『幻』の俺を捕まえるために。とりあえず、この場で見つからなかった幸運に安堵の息をつくと、ひょこりと顔を覗かせた安藤さんが『上手く追い払えたよ』と笑った。



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BGM♪スピッツ:空も飛べるはず:part2