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「ただいまー・・・」


時刻は夕方の5時。昨夜は極度の酔っ払いで、店の片付けすらおろかにして帰ってきたという亜門と一緒に、奴のアパートを出た。部屋を出たところで牧野サンと鉢合わせしないかとか、室見駅周辺で牧野サンに会わないかとか、色んな心配したけど、全部杞憂に終わって。ほっとすると同時に、少しだけ残念な気もした。俺って我侭だ。会ったところでどうする勇気も無いくせに、こんなことで落ち込んでる。自己嫌悪感じるの通り越して、笑うしかないよな。

 スニーカーを脱ぎ、母さんがいるだろうリビングには顔を出さず、そのまま階段を登る。いつものことだけれど、今みたく気持ちが沈んでるときは、誰にも会いたくない。特に普段からバカみたいにスーパーハイテンションの家族――妹を除く、だけれど――には。しかし。こういう願いというのは、時として受け入れられない。そして、もっとも会いたくないと願う人物に限って、タイミング良く――いや、悪く登場したりするのだ。今回も例外でなく、部屋に入ろうと扉を開けた瞬間、部屋を出ようと、同じように扉を開けた弟と出くわした。しかも、『おやつ♪おやつ♪』なんて間抜けな歌を歌いながら。


「お帰り・・・っつーか、元気ないねぇ受験生。どったの?顔色悪いよ?」

「お前も受験生だろーが」


 弟の問いには答えず、そのまま部屋に入ろうとするけれど。そうやすやすと逃がしてくれる奴じゃない。『兄貴の部屋、ポスター変えた?』なんてうまい事言って、一瞬の隙をついて、一緒になって俺の部屋へ入り、図々しくもベッドの上で胡坐をかく。『やっぱり俺の方が一枚上手だな・・・』なんてバカみたいに笑う奴を無視して着替え始めると、突然『どうだった?』と俺の顔を覗いて言った。


「・・・何が?」

「昨日の野球。城島ホームラン打ったじゃん?兄貴がいた辺に飛んできたりしなかったの?」

「・・・・」


 そう問われ、一瞬、背中に変な汗を感じる。そういえば、昨日の試合の結果を俺は知らない。城島がホームランを打ったことは知っていても、誰が何塁にいて、それで何点入ったかもわからないのだ。ホームランすらまともに見ることなく、試合の途中で球場を抜け出したし、あんなことがあって一睡もできなかった今朝、ニュースや新聞を見る余裕など全くもってなかったし。最低最悪。


「あー・・・」


 学ランをハンガーにかけながらチラリと弟を見ると、不思議そうに首をかしげる奴と目が合う。・・・ちくしょう。どうしてこういう時だけそんな可愛い仕草するんだよ。普段あれだけ憎たらしい態度取るくせに。俺が悩んでいるとは露ほども思っていない様子で、ホームランボールはどこへ飛んでいったのか・・・と、しつこく問う。まったく、こいつはガキか。


「・・・城島が走る姿見てて、ボールの行方見てないんだよな・・・残念ながら。っつーか、田村んち行くから、お前出てけ」


 ばれませんように・・・と心の中で祈りながら、心底ウザそうな表情で追い払うように手を振ってやる。ところが。それが裏目に出たのだろう。さっきの可愛い表情は一転して、いつもの子憎たらしい表情になる。へぇ・・・なんて含み笑いしながら、着替え中の俺を、上から下から嘗め回すように見る。・・・正直、気持ち悪い。


「・・・まさか、野球行ってないとか?牧野サンとやらと、どっか別のところで・・・・」

「んなわけねーだろ。ちゃんと野球行ったっつーの」

「ってか兄貴、まさか1人で先に大人になっちゃった・・・とか?」


 ウソー、マジで?兄貴に先越されるなんて・・・と、1人盛り上がって頭を抱え、ウホウホ言いながら部屋中くるくる回るこいつに、本気で心底腹が立つ。まず何だ、その『先に大人になる』ってのは。俺はお前よりずっとか大人だっつーの。そして『先を越される』って・・・年からすりゃ当たり前だろ。中学生で大人になるのはまだ早いし、お前には特定の彼女もいないし。・・・まあ、俺だってそうなんだけどさ・・・って、なんで俺まで感化されてんだ?


「ね、気持ちよかった?死ぬほど気持ちよかった?最初って入れるだけでいっちゃうってホント?入れるとき、男も痛いってホント?牧野サン、泣いたり・・・・」

「ウザいっ!」


 結局。いつものように脳天へげんこつの一撃。ゴン・・・と鈍い音を立てて。その後は、やっぱりいつものように頭を抱えてうずくまるバカが1匹。うー・・・と低い声で唸りながら、『暴力反対・・・』と涙目で訴える我が弟は・・・やっぱりバカだ。


「・・・だって、見に行ってるんなら答えられるじゃん。っつーか、ニュースでも新聞でも詳しく説明してるじゃん。それなのに兄貴答えられないなんて、見に行ってないとしか考えられないだろ?行ってないなら・・・やることはひとつ?みたいな。相手は兄貴の大好きな牧野サンだし・・・」


 痛いところを突かれ、言葉に詰まる。・・・いや、ちょっと待て。冷静になって、昨日の牧野サンの言葉を反芻してみる。球場を出る前、キ・・・キスをしてしまった直後。『なかったことにしよう』と懸命に振舞う彼女は、確かに『右側から打つ人がバット振ったら、右側に飛んできそうな気がするんだけどな』と言った。ということは、ボールは彼女から見て左側に飛んでいったということだ。外野側から見て左は・・・俺たちのいたライトスタンドだ。さすが俺、やるときゃやるじゃん。


「ライトスタンドに飛んでった事くらい、お前だって知ってんだろ。突然当たり前のこと聞き出そうとするから何考えてるのかと思えば、そんなアホみたいな・・・っつーか、サルみたいなことではしゃぎやがって・・・」


 もう一発、脳天に欲しいか?と奴にすごんだところで、ふと我に返る。さっきまであんなに重かった気持ちが、このバカ騒ぎのせい――おかげで、少しだけ軽くなっていることに気付いた。もちろん、こいつは俺が落ち込んでたことなんて知らないし、この騒ぎだって日常茶飯事だし。俺を慰めようなんて心遣いは、ほんの少しもないはずだけど。


「・・・これ、やる」


 昨日、机の上に放り投げたままの新しいタオル。本当は売ってやろうと思ってたけど。ホントにホントに、こいつには俺を慰めようなんていう心遣いは微塵もないけれど。こいつの言動で気持ちが軽くなったのは紛れもない事実で。相変わらず頭押さえてうずくまってる奴の上に、すっと差し出した。


「・・・へ?」


 自分の兄貴がモノをくれるなんて、しかも金を取らないなんて珍しいことだから――自分で言ってて淋しいが――、奴は間抜けな顔して間抜けな声出して俺を見る。


「・・・だから、やるって。気が変わらないうちに取れよ。あと10秒で却下するから」


 少し恥ずかしくなって、照れ隠し。すると弟はものすごいスピードで手の中のタオルを取ると、これまた凄いスピードで扉を開け、俺の部屋を出た。『もう絶対返さない』という意思の表れだろう。でも、その後『ありがと』ときちんと言えるところが、俺も認める奴の数少ない長所である。何かしてもらったら『ありがとう』、悪いことをしたら『ごめんなさい』。・・・まあ、奴の口から謝罪の言葉が聞けることは皆無に等しいのだけれど。

 ようやく訪れた静かな時間に、ほっと息を吐く。カッターシャツを脱いでTシャツを着、シャツを羽織り、ズボンをジーンズに変える。亜門の家で読んだ田村のメールには『夜、調子良かったらウチ来る?』とあった。田村に会ったから状況が好転する・・・とは思えなかったけれど、でも1人でいたくはなかったし、いつも心配してくれる田村に、少しでも報告――・・・振られたとか――したかったから。行く・・・とメールした。ショコやユカのメールも俺を責めるものじゃなく、むしろ心配する内容で。彼女達が牧野サンにどんな話を聞いたのかは――むしろ、牧野サンが昨日のことを彼女達に報告したのかすらわからないけれど、メールを読んでほっとしたと同時に、情けなくなった。酷いこと言っちゃったのにさ。


「・・・さて。行こ」


 もう一度息を吐いて、勢い良く扉を開ける。そろそろ夕食の支度を始めるであろう母さんに『田村の家に行ってくる』と大声で言い、スニーカーを履く。弟のマウンテンバイク――自分の自転車は、奥に入れられて取り出しにくかった――に跨り、ペダルを漕ぐ。10月の風は少し冷たくて、でも色んなこと考えすぎて煮詰まった頭には、ものすごく気持ちよかった。


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