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「ま、いつかは来ると思ってたけどさ・・・昨日の今日、それも部屋に・・・とは思わなかったな」

 顰め面でうーん・・・と唸りながら、テーブルにコップを置く亜門にありがとう・・・という。けれど、中には何も入ってなくて。

「冷蔵庫から好きなもん出して。ティーバッグとか簡単ドリップコーヒーとかは、横の小さな棚に入ってるから。飲みたかったら自分で作って。ケトルはシンクの下に入ってて、水は冷蔵庫のミネラルウォーター使って」

        

 真っ青な顔で頭抱えて、俺に向かってそう指示を出すと、そのまま衝立の奥に消えた。ポフン・・・とバウンドする音が聞こえたから、おそらくベッドへとダイブしたのだろう。それにしても珍しい、亜門が二日酔いなんて。彼曰く「失恋した女の子(客)に付き合って、閉店時間まで一緒に飲んでしまった」との事。ってか、店長がそれでいいのか?自分の酒まで自分で作っちゃってさ。支払をその彼女に持たせてたら最悪・・・とか思ったけど、それはなかったらしい。いくら仕事とはいえ、酔っ払いに囲まれた坂口さんも大変だよ、こんな店長でさ。

 早足・・・半ば駆け足で亜門の部屋へ向かい、チャイムを押す。返事はなかったけれど、連続ピンポンは止められてたから。今度はドアノブをガチャガチャひねる。ピンポンと同じくらい・・・いや、下手したらもっと不快な音がそこら中に響いてさ。案の定、亜門が慌てて出てきた。でも、今度は怒られなかった。亜門が怒鳴る前に、血まみれの右手を差し出したから。走って心臓の鼓動が早くなったからなのか何なのか、下駄箱を殴ってできた傷からどんどん血が流れ出して。自分でも怖かった。でも、もし体中の血が抜けて、失血死するというのなら、それでもいいと少しだけ思った。そうすれば、この苦しさから逃げられるから・・・と。バカバカしい話だけどさ。たかがこの程度の傷から、体中の血が流れ出るなんて、あるわけないのに。

 傷口を丁寧に洗って、黄色い変な薬――ガマガエルの皮膚から取った油だぞ・・・なんて、亜門に意地悪言われた。そんな薬あるわけないじゃん――を塗って、包帯まで巻いてくれて。応急処置なんてものじゃなく立派な処置をしてくれた亜門は、『若さと馬鹿さは紙一重』なんて俺をからかいながらもかなり心配してくれて。自分で思っていた以上に深く切れていた手の甲は、何もせずにじっとしているだけでもズクンズクンと鈍く痛む。普段なら不快な感覚だけれど、それが今は心地よい。だって、物理的な痛みは、精神的な痛みを少しだけ和らげてくれるから。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで一気飲みする。それでも喉の渇きが癒えなくて。もう一杯・・・と流し込んだら、今度は気管支に入って咽た。口から水を噴出しながらゴホゴホと咳き込む自分に、本気で嫌気が差す。何もかもが、うまくいかない。何もかもが、円滑に進まない。

 ユカとテツヤには悪いことをした、と今になって心の底から罪悪感を感じる。ユカは本気で俺のことを心配してくれてたのに、あんな大声で怒鳴りつけることなかったんじゃないのか、とか、部外者のテツヤにあんな酷いこと言わなくてもよかったんじゃないのか、とか。確かにテツヤは『ユカバカ』だけど、ホントにバカじゃない。だから、何でもかんでもユカを庇う訳じゃないし、ユカが悪いと思ったときには、びくびく怯えながらもちゃんと意見できる奴だ。だから今回だって、きちんと説明すればよかった。そうすれば納得してくれたはずなのに。そうすれば、普段温厚なテツヤを、あそこまで怒らせることもなかったのに。

 手近なタオルでこぼした水を拭く。水道で洗ってギュッと絞って、拡げてシンクにかけたら、他にやること思いつかなくて。とりあえず、もうコップにもう一杯水を注いだ。亜門は既に夢の中の住人だ。衝立の向こうから微かな寝息が聞こえる。誰かの寝息を近くで聞いてたら、俺も眠くなるかな。昨日寝てないしな。学ランを脱いでダイニングチェアの背にかけると、いつか不貞腐れて寝転がったソファへそっとダイブする。クッションを枕代わりにして目を閉じると、まぶたの裏がくるくる回って・・・体は正直だ。まるで、昨日寝なかった俺に忠告してるみたい。『今寝とかなきゃ、そのうち目を開いた状態でもくるくる回るよ』・・・って。





 少しだけ気持ち悪くなって、目を開けて部屋の中を見回す。部屋の掛け時計は、8時半を指していて。そろそろ朝のHRが始まる時間だ。櫻井センセ、崎やんにちゃんと伝えてくれたかな、『草野は体調が悪そうだったから帰らせた』って。崎やんより櫻井センセより何より、クラスの奴らはどう思っただろ、朝から不機嫌丸出しの、挙動不審な俺を見て。急に怒鳴りだして変な奴、とか。女の子にいきなり怒鳴りつけて最低な奴、とか。怒鳴られたユカは、一触即発だったテツヤは、近くで見ていたショコは、通学途中から俺を心配してた田村は、そして・・・牧野サンは。

 今でもやっぱり牧野サンを酷いと思う。心配そうな表情向けないでよ、こっぴどく振られた翌日でも、あんな表情見せられちゃったら期待しちゃうじゃん。『俺って望みあるのかな』って。それとも、俺が元気ないの、自分のせいだって思ってたのかな。あんな話聞かせたから・・・って。俺のこと、酷い――彼女がそう思っているかどうかはわからないけれど――振り方しちゃったから・・・って。でもそんな同情要らない。気の毒になんて思ってほしくない。それならまだ、無関心でいてくれた方がいいよ。そしたら、意味のない期待抱かなくて済むから。


「・・・ねぇ」


 返事が返ってくるはずないと知りながらも、衝立の向うの亜門に声をかける。そいえば、いつかもこんなことしたっけ。そうだ、ピンポンダッシュした日。田村に絶交宣言された日。あの時はちゃんと返事が返ってきて・・・どう、というわけじゃないけど、すげー嬉しかった。『人間失格』の烙印押された気分になってた俺のこと、まだ心配してくれる人がいるんだ・・・って、すげー安心した。


「・・・ねぇ」


 もう一度声をかけるけど、やっぱり返事はなくて。無理もないよな、泥酔してたの起こしちゃったんだもん。眠りが深くて、声に気付かなくたって仕方ない。・・・少し、淋しいけど。


「・・・・・」


 大きく息を吸ってもう一度目を閉じたところで、妙な振動音を感じた。それは床に投げ出された俺のカバンから伝わってくるもので。サイレントバイブにしてあるケータイだとすぐに気付く。起き上がってボタンを押すと、それは田村からのメールだった。『崎やんが心配してたぞ』って、たった一言。心配してくれているのなら、ズル休みのレッテルを貼られる心配はないだろう。とりあえず安心。そしてまた考える。田村といえば牧野サンだ。なぜなら、彼女達は隣の席だから。田村の隣は牧野サンで、牧野サンの隣は田村だから。少し悩んで、『牧野サンは?』とメールを打ってみる。送信ボタンを押してから、軽く後悔。ケータイをポンと投げたら、フローリングにぶつかり、ガツン・・・と鋭い音がした。

 亜門が起きたら話を聞いてもらおう。奴からすればメイワクな話かもしれないけど、でも、自分だけじゃどうにもできない。自分でも情けないと思うけどさ、好きな女の子に告白したこともなきゃ、振られたこともない俺にとっては、全くの未知の出来事で。正直言って、何が起こったのかも完璧には理解してなくて、自分がどうすればいいかとか、どうしたいとか、どんな気持ちで、どう感じてるのかとか、全然わからなくて。白旗フリフリ完全降伏状態。

 はぁ・・・と大きく溜息を吐き、もう一度目を閉じたところで、再びケータイが震えた。今度はフローリングの上だったから、ものすごい勢いでブルブルと震えだした。急いで拾い上げて振動を止める。恐る恐る亜門を振り返ってみたけれど、怒鳴り声がする気配もなければ、起き出す気配もない。ちょっとほっとして画面を見ると、それは田村からで。さっきの返事であることは容易に想像できた。確認しようと『開く』ボタンを押そうとして、手の中で、続けて震えだしたケータイ。やっぱりメールで、差出人はショコとユカとそれぞれで。心配メールかお怒りメールか。田村のメールを見るのも怖いけど、2人のメールを見るのも怖い。


「・・・あー・・・」


 再びソファへダイブして、ケータイを天井高く掲げた。さて、誰のメールから見るのがいいんだろう。でも、その前に眠いような気もする。緊張の糸が、ふとした拍子に切れちゃったかな。

 大きなあくびをして目を閉じると、自分でもわかるくらいに、すっと眠りの世界へといざなわれてしまった。



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        BGM♪bump of chicken:睡眠時間