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 この世に神様なんていない。いや、いたとしてもその人は絶対に意地悪だ。だって、俺の願いなんてこれっぽっちも聞き入れてもらえないんだから。



 憂鬱な体引きずって教室に入って、一瞬自分の目を疑った。教室の最後列には、絶対に休むと思っていた――というよりも、絶対に休んで欲しかった彼女が、いつもと同じ笑顔でユカと話をしていたから。いや、『いつもと一緒』というのは早合点だ。気をつけなきゃわからないことだけれど、目の下にはうっすらクマが浮いているのが見える。心なしか顔色も悪く見えて。きっと、昨日一日一緒にいた俺にしかわからないこと。もしくは、昨日一日一緒にいた俺の単なる思い過ごし。ユカが先に教室へ入った田村に気付き、おはようと声をかける。そして後に続く俺を見て・・・大きな目をさらに大きく、まん丸にして凝視した。


「・・・背後霊?」

「んなワケねーだろ」

「ってか、何、その顔色の悪さ。尋常じゃないよ?頭痛かったり気分悪かったりしないの?」

「別に・・・」

「保健室、行かなくて大丈夫?」

「行きたくなったら1人で行く」


 ユカの隣にある2つの目がどうしても気になって。悪いとは思いつつ、1度も目を見て返事ができなかった。無理やりに会話を切り上げ、そそくさと自分の席へ行く。途中、席に座り既に教科書を拡げるショコに『おはよう』と声をかけ、振り返った彼女は、やはりユカと同じように、目を真ん丸くして驚いた。ついでに『何?!』なんていう叫び声までついてしまったものだから。それに驚いたクラスの奴らが、わらわらと俺を振り返る。だらしなくにへらぁぁ・・・という笑みを浮かべてやると、皆、一瞬顔を引きつらせて、そして目を逸らした。


「・・・ごめん。あまりにも驚いたから・・・」

「いや、いい」

「一体な・・・・」


 ショコの言葉をオーラで遮って、自分の席に座る。俯いたまま、黙々とかばんから教科書やらルーズリーフやらを取り出していたら、ふと、机が翳った。顔を上げるとそこに立っていたのはユカで。


「ねえ、ホントに大丈夫?」

「大丈夫だって」

「でも顔色尋常じゃないし・・・」

「大丈夫」

「保健し・・・」

「うるさいっ!大丈夫っつったら大丈夫なんだよっ」


 ユカをキッと睨んで、大声で怒鳴る。教室中が、波打ったように静まる。さっきの顔色の悪さとか、やつれた表情とかで驚いた奴らが、今度は俺の大声に驚いて。ああ、最悪。そして、そういうことは時として度重なる。ユカから視線をずらし、小さな声で『ごめん』と呟いた。その瞬間。


「マサムネぇぇぇ!!」


 横からぐっと胸ぐら捕まれて、ガン・・・と、脳天に激痛が走った。一瞬目の前が真っ白になって、次に真っ暗になって、少しずつ視界が開けていく。そうして認識した人物は、怒り頂点に達したといっても過言ではないテツヤで。目をキッと吊り上げて、ものすごい形相で俺を睨んでる。


「・・・お前にしちゃ、登校時間はやいじゃん。どしたの?ってか、おはよう」


 あまりに急すぎて、胸ぐらつかまれてるとか、思いっきり殴られたとか、そういうことを認識できなくて、普通の挨拶しか、口から出なかった。でも、こんな時間にテツヤが要ることは本当に珍しい。専門学校組の奴にとって、朝の補習などあまり重要性のないもの。だから、本科の始業時間ぎりぎりに来ることが多く、また、補習を休んだからといって、センセたちもあまり厳しく咎めたりしなかった。

   

「どしたの?じゃねーだろ、お前ユカちゃん怒鳴りつけただろ?」

「・・・ああ、だから『ごめん』って謝った」

「謝って済む問題か?」

「悪いと思ったから謝ったんじゃん。ユカが許すって言うんなら、それで済む問題だろ。・・っつーか、ユカに殴られるんならまだしも、なんでお前に怒られなきゃいけないわけ?お前カンケーないじゃん」


 胸ぐらの手を勢い良く払って、襟を直し、テツヤを見る。


「お前、犬じゃないんだからさ、いい加減ユカの後ついて回るのやめたら?同じ男として、見てるの恥ずかしいんだけど」

「ちょっと、草野くん・・・」

「ユカだって、別にテツヤのこと好きなわけじゃないんだろ?だったら迷惑だって言っちゃえばいいじゃん」

「マサムネっ!」


 殴ろうとしたのか、もう1度胸ぐらを掴もうとしたのか定かではないけれど、興奮した様子のテツヤが再び俺に向かって手を伸ばす。テツヤが怒るのも当たり前だ。理由の無い怒鳴り声をユカに浴びせ、それを止めたテツヤに今度は罵声を飛ばす。殴られて当たり前だ・・・と思ったけれど、ユカがさっと手を出して、それを制する。殴ってくれれば良かったのに・・・と思う反面、止めてくれてよかった・・・と、心のどこかで安堵した。

 ・・・自分でもヤバイと思う。昨日から溜まり溜まった鬱憤が、音を立てて湧き出す。もちろん、これが醜い八つ当たりだということは、頭の奥では重々承知だ。でも、心がついていかない。関係のないユカやテツヤを巻き込んでまで、自分の気持ちを晴らそうとする自分が、酷く醜くて、吐き気さえする。

 これ以上の吐露は、自分を貶めるだけだ。無理やり言葉を飲み込んで、大きく息を吸う。小さくごめんと呟くと、机に入れた教科書類を、もう一度かばんへ入れなおす。そして、2人と視線を合わせないまま立ち上がった。


「・・・俺、かなり気分悪いから帰るわ。センセ来たらそう言って」


 ざわりとした教室に目もくれず、近い出入り口目指して歩き出す。牧野サンがガッコに来てるなら、彼女を心遣う必要も何もない。このまま亜門の部屋へ逃げ込めばいい。何もかも知ってる亜門に全部ぶちまけてやればいい。きっと、亜門は俺を受け止めてくれるから。欲しい言葉をかけてくれるから。

 教室を出る間際、ちらりと中――特に教室後部を伺う。ため息ついてる田村と、不気味なものでも見るような表情の平井。そして、牧野サンの心配そうな視線。今にも泣き出しそうな目で、唇ぎゅっとかみ締めて。目が合っても、絶対に逸らされると思ってた。でも、彼女はそうしなかった。じっと俺を見て、じっと俺を見つめて。耐えられなくなったのは、俺。すっと目を逸らし、乱暴に扉を閉める。


「草野、補習始まるぞ」


 運悪く教室へやってきた桜井先生。そうだ、今日は彼の英語だった。かばん持って教室から出てきたのだから、どうしたって遅刻ギリギリで教室へ辿りついたようには見えない。何てイイワケしたら言いのだろう、と思ったけれど。


「顔色悪いぞ、調子よくないのか?」


 なんて心配してくれたから。そうです・・・と言うように軽くうなずいた。


「無理は良くないからな。帰って寝ろ。明日は元気になって学校出てこいよ」

「・・・ハイ」


 軽く一礼して、昇降口へと歩き出す。一歩、また一歩進む度に、彼女に対する怒りがこみ上げてきた。どうして休まなかったんだろう。どうして帰る俺を見るのだろう。『好きにならない』んなら、あんな泣きそうな目で見なくたっていいじゃん。望みないんだったら、俺のことなんか無視すればいいじゃん。どうしようもないほど辛くて、悲しくて。木製の下駄箱を思いっきり殴った。ガツン・・・と鈍い音が心地よく響く。間もなく、頼りなさそうなミシミシ・・・という音を響かせながら、それは軽く揺れた。右の拳はところどころ赤い液体がついていて、その痛みが、気持ちを少しだけ落ち着かせてくれた。


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