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恋の火は、ときとして友情の灰を残す・・・と言ったのは、フランスの作家、アンリ・ド・レニエだ。愛が消えても友情は残る。それならどれだけよかっただろう。いや、むしろ火などつかなければよかった。そうすれば、友情という名の薪だけが残ったのに。今まで通り、少し近い友達のままでいられたのに。火をつけるということは、つまり燃やしてしまうこと。燃やしてしまうことは、つまりなくしてしまうこと。火をつけても形を変えないものなど、この世にはきっと存在しないだろう。今回のことも、またしかり。
どうしてキスなんかしたのだろう。どうして『無かったこと』にしようとした牧野サンを、あんなふうに責めたりしたのだろう。どうして、彼女の過去を聞こうと思ったのだろう。せめて過去の話を聞かなければ、こんな気持ちにはならなかったのに。ただ失恋した――彼女に振られたと、苦しむだけでよかったのに。


「・・・・はよ」

「・・・・っておい!」


 月曜日、朝7時。福岡県立城南高校校門手前50メートル、いつものように少し早足で歩く田村を見つけ、後ろからぽそりと声をかける。まずその声に驚いて肩をびくつかせ、そして振り返った田村は目を丸くしたまま、一瞬その場に固まってしまった。


「何、お前の顔・・・」

「・・・何が?」

「死神とか、貧乏神とか・・・なんか、そんな感じ。クマできてるし覇気ないし、やつれてるし・・・不幸丸出し?」

「・・・ほっとけ」


 ふん・・・と鼻を鳴らし、田村に並ぶ。不幸が乗り移ってきそうでイヤだ・・・という田村の腕を無理やり取り、手をつないでブンブン振ってみた。俺のことバカにした嫌がらせ。案の定、やめろといって振り払われた。


「・・・昨日、何かあったの?」

「・・・ぼちぼち」

「意味わかんねぇ。ぼちぼち良いことがあったのか、ぼちぼち悪いことがあったのか」

「・・・悪い方」


 しかも、ぼちぼちなんてもんじゃない。昨日のこと思い出して、最低まで落ち込んでたはずの気持ちが、さらにそれ以上沈んでいくのがわかる。はぁ・・・と長い溜息をつくと、辛気臭いからやめろと、田村に肩をどつかれた。でも一応は心配してくれてるみたいで。『話、聞くけど?』と続けてくれた。口ではムカつくこと言うけど、実は心配してくれてるのかな・・・なんて、都合の良い自己解釈と少しの感謝。話を聞いてもらえば、少しは楽になるかなと思い、口を開くけれど。


「・・・・お前はどうだったの?広島。姉ちゃん元気だった?」


 言葉の塊を飲み込んで、何とか別の言葉を紡ぎだす。


「まあ、元気だったけど・・・つか、あいつ殺しても死なねーわ。俺の顔見るなり、早く上がれとかダンナ紹介するとかメシ食いに行くとか買い物に付き合えとかまだ帰るなとか泊まってけとかこのまま広島に住めとか・・・あんまりうざいんで、腕振り払って逃げてきた」

「ダンナって・・・もう籍入れたの?」

「らしい。ま、ハタチ越えてるから親の同意もいらないし。別にあいつが良けりゃいいんじゃねーの?」

「おじさんとおばさんは?」

「籍入れちゃったんだから、もうどうしようもないっしょ。戸籍に「×」つけさせるわけにもいかねーし。でも、大学は辞めるわけじゃなくて、休学扱いにするらしい。本人も絶対卒業するってかなり気合入ってたし、それ聞いて親も少し安心したみたいし。周りがいいんなら、それはそれでアリなのかなー・・・って、会いに行って思った」

「・・・そっか」


 田村らしいといえばらしい発言。そりゃそうだ。当事者と関係者が良しとするなら、第三者がどうこう言うような問題じゃないだろう。話を聞く限りじゃ、田村の姉ちゃんも幸せみたいだし。・・・幸せ・・・か。良い響きだ。今の俺には到底遠くて、手を伸ばしたって届かない言葉。ひょんなことから再認識しちゃって、またショック。だから、隣で少し顔赤くして、らしくなくもじもじと話し出すタイミングを伺ってる奴に全然気付けず。あのさ・・・と遠慮がちな問いかけに、思わず驚いた。


「帰り、天神で偶然安藤さんに会ってさ・・・」

「・・・へ?ショコに?」

「うん、あ、いや、別にどうって事はなかったんだけど。ただ、ちょっと言っとこうと思っただけ」


 珍しく歯切れが悪い。なんか妙な感じがして、怪訝そうに田村を見つめる。すると、少し慌てたように周りをきょろきょろと見て、そして俺の背中を叩いた。バシッという音が結構大きく響いて、そして音に比例して結構な衝撃。


「俺よりお前だろ。そんな死にそうな顔して」

「・・・別にそんな顔してねーし」


 と答えながらも、実際凄いんだろうな・・・と、自分の顔を想像する。昨日あんなことがあって眠れるはずもなく。前――田村の一件だ――の時のように泣いたりはしていないから、目が腫れている・・・ということはないだろうけれど、それでもやつれて酷い顔になってるんだろうな・・・と思って、顔洗うときも、あえて鏡を見なかった。髪を整えるときも目を閉じて。だから変な風にはねたり飛んだりしてるかもしれないけど・・・気にしてられない。今まで誰にも何も言われなかったから、いつもと同じなんだろう、ということにしておこう。

 休もう、と思わなかったわけじゃない。むしろそうしたかった。家にいることは不可能だから、また亜門の部屋に転がり込もうと思ったけれど。今回ばかりはそうもいかない。だって、あそこは牧野サンの避難場所だから。彼女には、辛いときに逃げ込める場所があそこしかない。辛いときに頼れる人が、亜門しかいない。だから、俺は行けない。

 彼女は今頃何をしているのだろう。俺と同じように、重たいからだ引きずってガッコへ向かっているのだろうか、それとも、まだベッドの中の住人なのだろうか。東京の弟に電話してるかもしれない。亜門の部屋で、泣いているのかもしれない。ただひとつわかることは、彼女もまた、夢の住人にはなれなかっただろうということ。忘れかけていた古傷を、もう一度傷つけたのは他の誰でもない、俺だ。じくじくと痛み出したそれを、どんな風にして耐え抜いたのだろう。話を聞かされただけの俺なんかよりも、ずっと悲しくてずっと苦しいはずだ。


「・・・話、聞いてほしいけどさ」


 少しためらいながら口を開く。その小さな声に、田村が『ん?』と返事をした。


「なんか、うまく言えなさそうだから、今は・・・言えない。ちょっと、待って」

「・・・了解」

          


 右手で拳を作って、俺の肩を軽く叩く。あ、前にもこんなことあった。夏の研修のとき。花火大会の日のこと悶々と悩んでて、テツヤに八つ当たりして。自己嫌悪で泣きそうになってたとき、やっぱり同じ仕草を俺にしたっけ。『気にするなよ』と。結局、あの時から何も成長してない俺。人を傷つけることは簡単にできるのに、上手に話を聞くことも、気の利いた言葉を返すこともできない、情けない俺。いろんなことあって、少しは成長したつもりでいたのに。

 空を見上げると、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせた。その光が眩しくて、思わず目を細める。昨日の夜、牧野サンと一緒に見た月をふと思い出した。水面に映る月、空高く燦々と輝く太陽。俺が好きになったのは、もしかしたらそんなモノなのかもしれない。どれだけ手を伸ばしても、決して届くことのないもの。一瞬だけ、錯覚した。もしかしたら、牧野サンを救えるかもしれないって。もしかしたら、牧野サンは俺を好きになってくれるかもしれないって。でもそれは、水に反射した月を掬い上げただけ。実際は、何も変わっていない。手に入ったわけでもなければ、近づいてもいない。

 牧野サンが休めばいいな、と思った。ガッコを休んで、傷を癒せばいいと思った。受け入れられなくても、彼女が大切なことには変わりないから。彼女が少しでも元気になってくれれば、それでいいと思った。



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