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 お互いが口を開かないまま、寒空の下で時間だけが流れていく。一度何かが気になりだしたら、もう集中できなくなってしまうのは俺の悪い癖だろう。今回も例外じゃなく、牧野サンが風邪を引いちゃうんじゃないかとか、こんなに遅くなって母さん心配していないかとか、どうでもいい――訳じゃないけど、無関係なことばかりが頭の中をめぐる。しばらくは我慢してたけど、もうどうにもできなくなって。


「やっぱり帰ろう。ココから牧野サンちまでまだだいぶあるし、歩きながらでも話はできるから」


 ベンチに座る彼女を無理やり立たせて、先立って歩き出した。少しだけ意識を飛ばしてみると、しぶしぶながらもちゃんとついてきてるみたいで。少し安心した。歩調をいつもより少しだけ緩めて、空を見ながら歩く。星や月にかかる雲は相変わらずなく、『明日も晴れるかな』なんておどけた風に言ってみるけれど、彼女からの返事はなかった。話し出すタイミングをうかがっているのか、それとも躊躇しているのか。どちらにしても彼女が口を開かないのなら、俺が聞いてしまってもいいのだろうか。


「・・・ねえ、呪いかけられたとか人を好きにならないとかって言うけど、ホントは何が怖いの?なんで、そんなに怯えてるの?」


 言葉を選びながら、ゆっくりと言う。俺の言葉で彼女が傷つかないかとか、泣き出さないかとか、また怒り出さないか・・・とか、少しびくびくしながら。


「・・・・・」


 後ろで、コンクリートを蹴る足音がぴたりと止まる。不思議に思って振り返ると、立ち止まってじっと足元を見つめる彼女の姿が。しまった・・・と思った。爆弾を投下したというか地雷を踏んだというか、きっと俺は、彼女が言い出したくても言い出せなかったこと、一番触れてほしくないことを単刀直入に聞いてしまったに違いない。


「・・・ごめん」


 自分で言い出しといてなんだけど、それ以上追求することもできず、かといってうまい言い訳ができるわけもなく、結局振り出し――気まずい沈黙に戻る。


「・・・さっきの昔話の続き・・・だけどね」


 しばらく口を閉ざしていた牧野サンが、ふと顔を上げる。泣き顔でも怒った顔でもなく、むしろ晴れ晴れしているように見えたけど、表情を作ってるのがすぐにわかって、それはものすごく痛々しくて。もう話さなくていいよ・・・って言いたかったけど、言えなかった。


「彼が言ったの。『たまには外でデートしよう』って。2人はいつも人目を避けて、恋人らしく堂々とできたことなんて一度もなかったから。彼女は驚いたけど、本当は嬉しかった。普通に食事して、普通に遊んで、一緒に帰って。彼氏ができたら、一緒にそういうことしたいと思ってたから・・・」


 ゆっくりと歩き出す。けれどそれは帰り道を進んでいくわけじゃなく、ただ当てもなくふらふらと足を遊ばせる・・・という感じだ。帰ろうかやめようか、話そうかやめようか、そんな空気が伝わってくる。俺はどうしたらいいんだろう、後についてぶらぶらするのもおかしいし、だからといってこの場に突っ立っているのも間抜けだ。そんな気持ちを紛らわせるために、残りのコーラを一気飲みした。それはまだ冷たくて、体にはきつかったけど、いろいろ考えすぎてのぼせた頭には心地よかった。


「SP・・・ホントにいるんだよ、びっくりするでしょ?・・・の目をごまかして、一緒にランチ食べて、野球を見に行ったの。日本でやる、アメリカの野球だ・・・って隣に座ってるおじさんが言ってた。意味わかんないよね。アメリカと日本じゃ、全然違うのに・・・」


 きっと大リーグの親善試合か何かだよ・・・と言おうとして、やめた。こんなところで口を挟んだら、きっと会話が止まってしまうから。今は、ようやく口を開いてくれた彼女の話を聞くべきだ。


「2人ともルールわかんなくて、隣のおじさんにレクチャー受けて・・・神さまって意地悪だな・・・って思うんだけどさ。試合中、真剣に応援してるおじさんたちに・・・じゃなくて、あたしめがけてホームランボールが飛んできて、思わずキャッチして・・・」


      
     


 この先、何となくわかるでしょ?と、俺の顔を見て笑った。・・・何となくわかる、そんな気持ちをこめて、小さく頷く。大リーグが日本で試合するなんてすごいことだから、しかもホームランボールなんて必ず出るとは限らないものだから。キャッチしたラッキーガールをカメラは必死で追うだろう。そうして放映された様子を、関係者の誰かが見ていたとしたら・・・。

 再び手近なベンチに腰を下ろして、彼女が笑う。『何もかも、ばれちゃった・・・』といいながら。
「そこから先は結構単純。道明寺はNYに連れて行かれちゃって、追いかけてったあたしは門前払い。でもある人の協力で何とか会って、話をして・・・」

「・・・・・」

 牧野サンの横に、そっと座る。明るい声で淡々と話す彼女は、見ていて逆に苦しすぎる。ちらりと横目で彼女を見れば、無理やりに笑顔まで作って。頑張って無理して、でも我慢しきれなくて。目が微かに潤んでることや、唇が微かに震えてること、見逃すことは・・・俺にはできない。でも、どうすることもできない。ジレンマと自己嫌悪、キャパシティの小さな俺はその両方を持て余してしまう。


「やっぱり一緒にいたいって、お互いの気持ち確かめ合ったのに・・・あいつはあいつの親を恨む人に刺されて、生死彷徨って、あたしのこと忘れて・・・」


        


 最後は、声になっていなかった。俺も、声が出せなかった。なんだよ、そいつ。牧野サンのこと好きなくせに、牧野サンのこと忘れるなんて・・・膝に置いた手を、ぎゅっと握り締める。


                     


「それ、かなりきちゃったんだよね・・・やっぱり。今まであたしが1番だったのに、『知らない女』とか言ってすごく冷たくされて。でもね・・・それだけだったら、きっとあたし立ち直れてた。一応『雑草のつくし』ってあだ名ついてたし、自分でも強い方だと思ってたから。でもね・・・」


 言葉が途切れ、彼女の喉が鳴る。しばらくの間、口を開いたりまた閉じたり、言い出すタイミングを計っていたけれど。


「春休みに・・・・差出人のない白い封筒が、アパートに届いてた。もちろん、あたし宛。郵便で送られてきたわけじゃなくて、誰かが郵便受けに入れていった。住所も書いてなければ、消印も押してなかったから。」


 今考えれば、怪しいな・・・って警戒するんだけどね、と、苦笑しながら言葉を続ける。


「誰からだろう・・・と思って、部屋に戻らずに、そのまま開けたの。そうしたら、中から小切手が出てきて・・・しかも、ものすごい金額。すごく驚いた。一体どういうことだろうって。立ち尽くしてたら、そのうち黒いスーツ姿の男の人が来て・・・あたしに言った」

「・・・『これを受け取ったから、もうドウミョウジには近づくな』って?」


 再び黙り込んだ彼女に代わって、俺が言う。もう、頭の中は大混乱だ。まるでドラマじゃん。現実世界にあり得ないことばっかじゃん。刺されたとか、自分のことだけ忘れたとか、別れる慰謝料の小切手とか・・・俺の常識の枠を大きく越えた世界。何が本当で何がウソで、誰が良くて誰が悪いのか、もう冷静に判断できない。

 牧野サンは小さく頷いて、そして続けた。


「受け取る気なんてさらさらなかったけど、自分で封筒開けちゃったから、もうダメなんだよね。『仕組まれた』って抗議したところで、あたしが大財閥の女社長に勝てるはずがなくて。もう、相手の条件を飲むしかなかった。もちろん、小切手はその場で破り捨てたけどね・・・」

「・・・・・」

「だから、もうどんなに道明寺のこと好きでも、話すことも会うこともできない・・・できなくなった。そんなことしなくたって、あいつはあたしのこと忘れて、傍にも寄らせないんだから・・・意味ないのにね」


 大きくため息を吐いて立ち上がると、牧野サンはパンダのぬいぐるみをベンチに置き、うん・・・と伸びをした。俺に背中を見せて、『すごい話でしょ?』と明るい声で言う。けれど、わかる。彼女が今、必死で涙をこらえていることが。肩が小刻みに震えていて、声が次第にか細くなっているから。


「そんな状態で、東京になんか居たくなかった。どこでもいいから、今までのこと忘れられる場所に行きたかった。そんな時、亜門が大学辞めて、福岡で自分の店持つことになったから・・・ってお別れの挨拶に来て。彼に必死で頼み込んで、一緒についてくことにした。あたしのことも、あたしの過去も、誰も何も知らない新しい場所で、今まで通りの明るくて強いあたしになろうと思って」

「・・・ご両親は?」

「もちろん、東京にいるよ。道明寺が記憶なくしたことと、小切手のことをちゃんと話して、東京から出たいってお願いした。でも、あたしがいる場所までは知らない。あの人たちは口が軽いから、誰かに聞かれれば、すぐにしゃべっちゃう。ばれちゃったら、1人・・・亜門と2人でココに来た意味、なくなっちゃうから」


 でもね、弟は知ってるんだよ。時々電話くれるの、と、言葉を続ける。そしてふと、研修の夜のことを思い出した。ふといなくなって、電話をしていた牧野サン。弟からの電話というのは、ウソじゃなかったのだろう。


「福岡に来て、新しい友達ができて、本当に楽しいと思った。でも・・・ダメだった。忘れられない・・・ううん、忘れさせてくれない。楽しいことがあった日に限って、いつも同じ夢見るの」

「・・・夢?」

「うん。夢っていうより・・・悪夢だね。真っ暗で、右も左も上も下もわからない空間に、あたし1人がポツン・・と立ってるの。光なんて全然なくて、怖くて不安で走りだすと、必ず何かにぶつかる。ふと顔を上げると、そこにはうつろな目をした道明寺が立っててね。苦しそうに何か呟いてるんだ」

「・・・」

「そのうちあたしを振り返って、眉間にしわ寄せて『お前なんて知らない・・・』って、搾り出すような苦しい声で叫んで・・・涙を流す。普通の涙じゃなくて、血なんだよ?赤いの。それでいつも怖くなって、泣きたくなって・・・・目が覚める」


 たまらなくなって、立ち上がる。まだ肩を震えさせる彼女の後ろにそっと立つと、大きく息を吸った。


「どうしてそんな夢見るんだろう・・・って、最初は思ってた。でも、仕方ないよね。よく考えたら、全部あたしが引き起こしたことなんだもん。あたしが原因で、こんなことになっちゃったんだもん。もしあたしが封筒を開けなかったら。もしあたしが『一緒にいたい』なんてワガママ言わなかったら。もしあたしがホームランボールキャッチしなかったら。もしあたしが道明寺のこと好きにならなかったら・・・・・」


 続きは言葉にならなかった。きっと、突然のことで牧野サンが驚いたから。自分でも驚いてる。でも、どうしてもこうしたかった。






「・・・牧野サンのせいじゃない」


 ほとんど声にならない声。でも、それが俺の精一杯で。後ろから抱きしめた腕に力を込める。胸の中の牧野サンは、想像してたよりもずっと細くて、少しだけ驚いた。


「・・・牧野サンのせいじゃ、ない・・・」


 もう一度、ゆっくりと言う。そう、牧野サンのせいじゃないし、きっとドウミョウジのせいでもない。どうしても何かのせいにしたいというのなら、それは未熟さのせいだろう。でも、それを責めるわけにはいかないから。未熟な自分達を否定することはできないから。


「・・・ホントはね、怖いの。他の人を好きになることが。好きになったら、無くしたくなくなる。でも道明寺みたいなことになったら・・・と思うと、もう、ダメなの。こんなに辛い思いするくらいなら、もう、誰も好きになんてなりたくない・・・」


 ブルゾンの上に1粒、2粒と涙が落ちる。水滴を吸った生地が、少し不快に、俺の腕に絡みついた。


「草野くんのこと、好きになったって、すぐにいなくなっちゃうから・・・・そんなの嫌だから、だから・・・」

「俺はいなくなんてならない」

「そんなこと、確約できない。少なくとも、卒業したら東京へ行く気なんでしょ?あたしが絶対に行けない場所。だから、不安な約束なんて・・・交わしたくない・・・」

「・・・・・」


 何にも答えられなかった。だから、抱きしめる腕にさらに力を込める。『信じてよ、俺を信じてよ』、そんな気持ちを込めて。

 『離れていく人を好きになれない』、そんな理由、酷いと思った。牧野サンは中途半端だ。思い切り『嫌い』と言ってくれたほうが、ずっと楽なのに。諦める努力をするだけでいいのに・・・。一体、今の気持ちをどうしたらいいんだろう。好きでいていいのか、それともダメなのか。彼女は俺に助けてほしいのか、それとも放っておいてほしいのか。もう、何もわからなかった。彼女が今、小さな嗚咽を漏らしながら泣いていること以外は。





   次は番外編です!!
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