65

 『その時ショコがね・・・』『・・・で、そこで崎山先生が・・・』と、楽しそうに話をする牧野サンに、マジで?とか、そうなんだ・・・とか相槌を打ってみるけれど、実は、話の内容なんて全然頭に入ってなくて。ここにいるはずの俺の心はここにあらず・・・である。もちろん、思考の大半を占めているのはあの男だ。オンミョウジとかホウリュウジとかっていう、何やらなじみのないへんてこりんな苗字の、父さんの雑誌に出ていたあの男。亜門にそっくりで、でっかい財閥の跡取りとかいうあの男。
9月の始め、亜門は俺に『結ばれない王子と姫の悲しい昔話』をしてくれた。でも、それは完結していなくて、続きは俺の脳内完結。『身を切り裂かれる思いで、王子と姫は離れ離れになってしまったのです』というのは、都合の良いただの妄想。こうであって欲しいという、ただの俺の願望。事実、果たして彼らは本当に結ばれなかったのだろうか。お互いを諦めることは出来たのだろうか。親の反対とか、小道具の出現とか、そんな邪魔者の手の届かないところで、強く強く結びついている・・・なんてことは、本当にあり得ないのだろうか。
                     

「・・・くん」


 牧野サンが東京を離れ、ここ福岡にいることは紛れもない事実だ。でも、その裏に隠された真実は?『恋人と別れたから、遠く離れた場所で心の傷を癒す』なんてこと、現実世界じゃ考えられないし、何の権威も経済力も持たない一介の高校生に、そんなことできるはずがない。でも、それはあくまでも『俺』という人間の常識範囲内で考えられること。『女をだます』ことへの報酬で、簡単に500万も出せるような世界の人間の考えることなんて、到底想像できない。もしかしたら、彼に金輪際近づかせないために、彼女はここへ飛ばされたのかもしれない。彼の母親によって。


「・・・草野くん?」

「・・・・・あ、ごめん・・・」


 肩の辺りを軽く引っ張られて、ふと我に返る。隣――バスの窓側だ――に座る牧野サンは、少し不服そうに、でもどこか心配そうに俺の顔を覗き込む。その表情は抱きしめたくなるくらいに可愛くて。普段の俺なら天にも昇る勢いだけれど、今日はとてもそんなふうに浮かれられない。


「どしたの?朝から元気ないけど・・・」

「あ・・・昨日の夜中、弟とケンカしてさ・・・」


 『父さんの経済史に載っていた、何とかという男が気になって仕方ありません』なんて、本当のことなど言えるはずもなく、その場をごまかすために、頭に浮かんだうそを咄嗟に口にした。でも牧野サンはそれを疑うでもなく、『あたしも弟いるの。よくケンカしたよ』などと無邪気に言葉を返す。それがまた心苦しくて、俺は余計に辟易してしまうのだ。

 何故こんなに心穏やかでないのか、考えれば考えるほど、理由はひとつしか浮かばない。認めてしまうのはガキみたいで嫌なのだが、そうなのだから仕方ない。つまり、俺は嫉妬しているのだ、財閥の後取りで亜門にそっくりの、あの何とかいう男に。



 待ち合わせの室見駅についた時、彼女は既にそこに居た。『野球観戦』という目的にふさわしいラフなスタイル――グレーのパーカーにロールアップジーンズ、少しごついボディバッグを提げて、コンバースのハイカットスニーカーを折り曲げて履いている――は、いつもの制服姿の彼女からは想像しがたいものだったけれど、よく似合っていて可愛いと思った。普段の俺なら『可愛いね』なんて少し照れながら言っちゃうんだろうけど、今日はとてもそんな気分にはなれなくて。あの男の前でも、こんなカッコして一緒に出かけたりしてたのかな・・・なんて考えが一瞬だけ脳裏を掠める。そしたらもうダメだ。その時、牧野サンはどんな表情したのかな、とか、どんな風にそいつに向かって笑ったり、話しかけたりしたのかな・・・なんて考えちゃって、冷静でいられなくなっちゃって。ムカムカした気分何とか押し殺して、『おはよう』と口にするのが精一杯だった。
既に到着していた福岡ドーム経由のバスに乗り込む。バスの中はがらんとしていて、席は選びたい放題。この辺に座ろうか・・・と、真ん中らへんの席を指差し、『車にはあまり強くない』という牧野サンに、窓側の席を譲る。そして、牧野サンの声ばかりが聞こえる会話――果たして、これが会話として成立しているかどうかは謎なのだが――をしながら、今に至るのである。

 自分でもおかしな話だと思う。牧野サンに彼氏――と断言できるのかどうかは定かでないけれど――がいたことなんて、とっくに知っていたはずなのに。でも、それは『牧野サンの彼氏』というただのオブジェクトでしかなかった。でも今はどうだろう。母さんのせいで――ごめん母さん、ただの八つ当たりかも――そのオブジェは名前を与えられ、現実の人間となってしまった。牧野サンを好きで、牧野サンが好きな男。背が高くて、男の俺が見てもかっこよくて、アメリカの大学に留学できちゃうくらいに頭が良くて、その上日本屈指の金持ちで。俺から見れば非の打ち所のない男。牧野サンがそんな男と付き合ってて、別れたかどうかも分からなくて、別れてたとしても、その男のこと忘れられない・・・なんてことになってたら。俺、好きでいるだけ無駄じゃん、彼女のこと。到底敵いっこないもん。

 大きく溜息ついたところで、ジーンズのポケットに入れたケータイが、ブルブルと震える。同時に、牧野サンのケータイも、可愛らしい着信音を鳴らし始めた。お互い顔見合わせて、無言でケータイを開く。案の定というか何というか、メールの差出人はショコ。『野球観戦に行く悲しき受験生、このチャンスにつくしとひっついちゃえ!』だって。余計なお世話だっつーのね。


「・・・メール、ユカからだったよ」


 牧野サンは今にも吹き出しそうな表情浮かべて、はい・・・と画面を俺に見せる。そこには、今ショコから届いた内容と大差ない文面が。ただし、牧野サンのメールは『ひっついちゃえ』じゃなく『襲われないようにね』だったんだけど。


「・・・襲わないよ。むしろ、俺が襲われるかもじゃん・・・」


 小さく深呼吸して、少し気持ちを落ち着けて、冗談っぽくそう言ってみた。ショコのメールのように、せっかく2人で出かけられるチャンスなのだ。唯一無二かもしれないのに、いつまでも仏頂面してても仕方がない。


「あたしだって襲ったりしません!」


 キーっと怒り顕わにしながら、ポカポカと俺の肩を叩く。痛い・・・と体をひねって逃げてはみるものの、所詮は狭いバスの中。全ての攻撃から逃げられるはずもなく、何発かは受けざるを得ない。『暴力反対!』なんていってみるものの、『うるさい!』と一言で片付けられてしまって。


「草野くんっていつも優しいくせに、時々すっごく意地悪だよね」

「時々・・・ならいいじゃん」

「いっつも意地悪だったら、こんな風に一緒に出かけようなんて思わないよ!」


 なんて、俺の肩を最後にバシッと殴りながら、ふと彼女の動きが止まる。次の瞬間、『何でもない!』なんて叫びながら、窓の外を向いちゃって。俺には何がなんだかさっぱり分からない。でも、窓に写る牧野サンの顔が赤くなってるのが見えて。・・・ちょっと、俺まで恥ずかしくなってきちゃったんですけど・・・つまり、牧野サンは『いつも優しくて時々意地悪な草野くん』からのお誘いだったから、一緒に行こうって思ってくれたわけだ。俺のこと、『2人で一緒に出かけられる』くらいにはよく思ってくれてるってこと・・・だよね?俺、ちょっとだけどうぬぼれちゃっていいのかな・・・・

 無言のまま、バスは大通りを抜けていく。めまぐるしく変わる景色を、窓ガラスに写る牧野サンと交互に眺める。時折ガラス越しに目が合ったりして、その度にお互いワザとらしく目を逸らしたりして。アレだけ不機嫌だった自分が嘘みたいだ。牧野サンの些細な一言でこんなにころころと自分の気持ちが変わっちゃう俺って、ダメダメだよね・・・

 ・・・なんて事思ってたこの頃が、きっと一番の絶頂期だったのだと思う。この後、雑誌の男に抱いた嫉妬と、自分勝手な自惚れが形となって現れ、大きな事件を引き起こすことになるとは、その上、その事件が今後の生活を大きく狂わせることになるとは、今の俺には知る由もなかった・・・

               NEXT→
                       BGM♪スピッツ:さわって変わってpart1