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 飲食店のキッチンの床というのは、コンクリート打ちである場合が多いと言う。もちろんそれには理に適った訳があって。ホール以上にドリンクや食べ物なんかが落ち、汚れやすい場所だから、掃除しやすい素材じゃなきゃいけない。コンクリートならば、閉店後に水をぶちまけて、ブラシでごしごしこすって、汚れた水を逃がしてあげれば終了。比較的簡単にキレイに出来るのだ。

 突然こんなことを説明し始めて、何が言いたいのかって?つまり、亜門のこの店も例外じゃなく、俺が今まで立っていた場所もコンクリートだってわけ。開店して間もないから、何かがこぼれているということも、既に掃除して水浸しということもないけれど、ひんやりと冷たいコンクリートに座り込むのは、ちょっと複雑な気分。ズボンを通して、じっとりと湿ったような感じが・・・気持ち悪い。立ち上がりたいのは山々だけれど、立ち上がったら崎やんと『ご対面』しちゃうわけで。それはちょっとよろしくない。崎やんとご対面しないためには、ここでおとなしく座り込みを決めてなきゃ・・・だ。ああ最悪。崎やん、何でこんな日に来るわけ?ってか、教師が酒なんて飲むなよ。俺らだって、おおっぴらに飲むのは控えてんだからさぁ・・・っつーか、もうすぐ試験週間だっつーの。体育の教師は問題作る必要とか、ないかもしれないけどさぁ、だからって遊んでいいって訳じゃないんだよ!と、完全な八つ当たりモードで、心の中で毒づいてみる。

 あ、でもでも、亜門は俺がここで背中に冷や汗感じで座ってること知ってるわけだから、もしかしたら、亜門が崎やんをテーブル席にやんわり移してくれるかもしれない・・・なんて、ちょっとだけ都合のいいこと願ってみたけど。


「珍しいですね、平日にいらっしゃるなんて」


 なんて話し始めちゃって。和やかな雰囲気はそのまま続き、俺の座り込み続行はほぼ確実。『最初はブラックベルベッドでいいですか?』なんて、笑ってる場合じゃないっつーの。ってか、何だよ、ブラックベルベッドって。黒いベルベッドかよ。柔らかい布地で何か作ってくれるとでも言うのか?ここは服屋でも生地屋でもないっつーの。非難の意とSOSの気持ちを混ぜた視線を亜門に送ってみるけれど、奴はテンで無視。崎やんもさぁ、こんなおしゃれっぽいとこなんて来ずに、居酒屋でも行けっつーの。あー・・・腹立つ!

 頭をかきむしりたい衝動を何とか押さえ、体操座りしたまま深呼吸。こりゃ、崎やんがトイレとかで席を立った瞬間に、更衣室兼倉庫に逃げ込むしかない。着替えて裏口から逃げれば、何とかなるだろう・・・って、ここ確か裏口ないんだよな・・・って事は。結局崎やんが帰るまで、こうしてるしかないってことじゃん。コンクリートの上で体操座りを決め込むか、倉庫で崎やんが帰るのをひたすら待つか。

 あきらめの溜息。はぁぁ・・・と大きく息を吐いたところで。

「いや、今日は客として来たわけじゃないんですよ」


 崎やんの、申し訳なさそうな声が聞こえた。その言葉に、グラスを用意し始めた亜門の手がぴたりと止まる。『あー・・・』と、らしくなく呟いて。理由は、俺にも何となくわかった。亜門と崎やんの関係は、『バーのマスターと客』という簡単なものだけじゃない。そして、客としてここに来たわけではないというのだから、崎やんが亜門を訪ねる理由はたった1つ。『牧野サンの保護者』としての亜門に用があったということ。そして、今日は進路希望調査票の提出日――俺がこってり嫌味を言われたアレだ――だった。ということは、牧野サンの進路に問題があるということで・・・。さすがに、俺が聞いちゃいけない内容だよな。亜門が困るのも分かる。


「牧野のことですか・・・」


 小さく呟きながら、足元に座る俺に、困惑した視線を投げかける。心配しなくてもいいよ。ここで聞いたこと、誰かに言いふらすようなことしないから。そんな意味を込めて、すばやく『見ざる言わざる聞かざる』のまね――目と耳と口を順番に押さるアレだ――をしてみせる。亜門は崎やんに気付かれないくらい小さくうなずいて、ひざで俺の肩を軽くつついた。『そのままおとなしくしてろ』って合図・・・の、はず。コンクリートと密着するズボンも、湿っぽくて気持ち悪いけど仕方ない。他の誰でもない牧野サンのことでもあるし、ここはもう少しおとなしくしていよう。


「今日、進路希望表の提出期限だったんですが、牧野だけが出さなかったんですよ。忘れた生徒のために、白紙の用紙を何枚か用意しておいて、その場で書かせたりもしたんですが、彼女はそれすらもしなくてですね・・・」


 ・・・マジですか?あの牧野サンが?なんか、すげー意外なんですけど。牧野サンって言ったら、学業は優秀だし、宿題出し忘れて怒られてるとことか見たことないし。もちろん、宿題以外の提出物もしかり。その牧野サンが、未提出・・・・はぁ・・・


「それで、帰りに呼び止めて理由を聞いてみたんですが・・・」

「あいつ、『進学する気はない』って言ってませんでしたか?」


  崎やんが、息を呑む音が聞こえた。俺も、思わず息を呑んだ。だって、牧野サンそんなこと言ってないし。夏の合宿も真剣に勉強してたし、『受験勉強の息抜き』って言葉、よく使ってるし。そりゃ、どこの大学行きたいとか、そういう話をしたことはなかったけど、でも、でも・・・。


「国沢さんのおっしゃる通りで・・・牧野は『もう決めた』と言ってはいましたが・・・進路調査票には、一応就職という欄もあるので、とりあえずはそこにチェックして提出しろと言ったのですが・・・それも気が進まないみたいで。無理強いしてもいけないと思ったので、今日はそのまま帰しました」


 って、崎やん俺のときと全然態度違うじゃん。俺が職員室言って『表忘れました』って言ったときには、白紙の紙をすっと差し出して、『今書け、すぐ書け、とにかく書け』って急かしたくせに。何?俺・・・男は邪険に扱っても牧野サン・・・女の子には優しく・・・・って?

 ご存知でしたか?と崎やんの声がした。でも、亜門はなかなか答えない。


「・・・心底決めたわけじゃないんじゃないですか?」

「そう思います。まあ、まだ10月ですし、調査票を出したからといって、その通りの進路をとらなきゃいけない訳じゃないし・・・」

「・・・・・」

         

 亜門が、腕を組んで天井を見上げた。一体何を考えているのか。進学しない牧野サンのことか、それともその理由か。亜門には、思い当たる節があるのかな?牧野サンが就職するって言ってることや、それを迷ってること。俺も体操座りして足を抱えたまま、亜門を見上げる。


「・・・本人には、俺から何か言った方がいいですか?」

「それは国沢さんにお任せします。ただ、こういうことがあったということを、一応報告しておいたほうがいいと思っただけなので」


 下手に何か言って、彼女に不愉快な思いをさせるのも本末転倒ですから・・・と、崎やんが笑う。それにつられてなのか、亜門も一瞬だけ笑い声をもらした。


「じゃ、それだけ伝えたかっただけですから」

「・・・もう、お帰りですか?」

「この辺りには学習塾がたくさんありますからね。塾から出て来た生徒と鉢合わせ・・・なんて、気まずいですよ。片や必死で勉強している学生、片やバーから出てくる教師なんて。そろそろ試験期間に入りますし・・・」

「塾帰りだけじゃなくて、遊び帰りの学生もたくさんいると思いますよこの辺りは、気軽に遊べる場所もたくさんありますからね」


 っておい、それは俺のことかよ。亜門がつま先で俺をつつく。こら、やめろ。俺は別に遊びに来てるわけじゃないんだからな!!反論の意を込めて、グーでつま先を殴ってみる。でも、見るからに高そうな革靴を履いている亜門には、きっと痛さも何も伝わっていないはず。むしろ殴った俺のほうが痛かったりして・・・ああ、これこそ殴り損?


「また、週末にゆっくり来ますよ」

「お待ちしております」


 じゃあ・・・と崎やんが席を立つ・・・空気を感じたので、俺は腰を上げて――長い時間体育座りしていたから、腰が痛い――カウンターから少しだけ顔を覗かせる。坂口さんが崎やんをドアまでお見送りして・・・そして、ベルの音が鳴り、ドアが閉じた。


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