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「・・・ただいまー・・・」


 誰にも聞こえないように小さく言って靴を脱いだ・・・んだけど。


「正宗?あんた今ごろ帰ってきたの?」


 リビングで未だテレビを見ていた母さんが、ひょこりと顔を出した。
まだ起きてたなんて予想外。ちっと小さく舌打ちして、適当にうなずきながら階段を上る。
途中、下に降りていく弟とすれ違って。


「田村さんとこ行くとか言って、実は彼女と遊んできたんじゃないの?」


 なんてこと言われた。冗談じゃない。
彼女―――きっと、牧野サンのこと言ってんだろうけど―――と遊んできて、こんな暗い顔でいるバカがいるか?
じろりと睨んでやったら、わざとらしく肩すくませて。『兄ちゃんは怖いなぁ・・・』なんておどけた。


「・・・1人でバカ言ってろ」


 まるで捨て台詞のように弟に言い捨てて、自分の部屋の扉を乱暴に閉める。
バタン・・・と、とてつもなく大きな音に少し驚きながら、ふらふらとベッドへダイブ。
昼間、母さんが布団干しておいてくれたみたいだ。
日なたの匂いがして、何故か牧野サンの笑顔を思い出した。



 亜門の店は、9時半を過ぎた頃から急に混み始めて。とても話できる状態じゃなくなってきちゃってさ。
仕方ないから、また来るって言って、スタッフルーム借りて着替えて店を出た。
聞きたいことはたくさんあったけど、だからって仕事の邪魔をしちゃいけない。それくらい俺にもわかるから。




 店を出たけど、まっすぐ帰る気にはなれなくて。
あたりまえだよね、いろいろ知っちゃったんだもん。
ローソンでミネラルウォーター買って、ふらふらと須崎公園へ入る。
手近なベンチに座って、ぼんやり街灯に照らされる景色を見てた。
犬の散歩してる人がいて、意外だったな。
思わず思い出しちゃった。
室見川でマリの散歩してたときのこと。
宮田のことですげー落ち込んでて、通りすがりの牧野サンに慰めてもらったんだっけ。

『今大切なのは、草野くんがどうしたいかでしょ?』

 そう言い切った牧野サンのこと、本当に強いと思った。
でも、今ならわかる。
彼女は強い人なんじゃなくて、強くならなきゃいけなかったんだ・・・って。
強くならなきゃ、きっと『淋しい街』では生きていけなかったんだ・・・って。

『俺が実際目で見て聞いたことだけだから、ホントがどうなってるかなんて、よくわかんねーんだけどな』

 亜門はそう前置きしてから『昔話』を語ってくれた。
ヒロインは、とてつもない金持ち学校に通う、一般市民の苦学生。
ヒーローは、同じ学校に通う、日本屈指の大企業のご子息。
普通なら出会わないはずの2人が、普通じゃない恋をした。
まるで、安っぽい映画やドラマのキャッチコピーみたいだと思った。
そんなのは、作り物の世界だけでしか存在しないと思ってた。
でも、本当に居たんだ・・・って、亜門はゆっくりと言った。

『姫と王子がどんな出会い方をして、どんな風に恋に落ちたかは知らない。
 その2人は俺とは全く別の世界の人間だったから。俺はただなんとなく大学に通って、バイトして、女と遊んで・・・』

『・・・・・』

 サマー・デライトを口に含む。シュワワ・・・という炭酸が・・・きつい。
同じ炭酸でも、コーラなんかはそんなに感じないのにな。甘くないからかな・・・。
どうでもいいことを、亜門の話を聞きながらぼんやりと考えた。

『これが作り物の話なら、姫と王子はめでたく結ばれました・・・ってなるんだろうけど、
 現実はそんなに生易しいもんじゃなかった。王子の気持ちに気付いた魔女が怒り出したんだ』

『魔女?』

『王子の母親。そりゃ、気持ちもわからないでもないけどな。将来会社を背負って立つ身の息子が、
 昔風に言えば「どこの骨ともわからない娘」と付き合ってるなんてさ』

『・・・俺にはわかんない』

 なんで?どうしてダメなんだ?自分の息子が好きになった女なのに。
ウチの母さんだったら、きっと諸手を上げて受け入れてくれる。
たとえ自分が嫌いなタイプだとしても、付き合うな・・・なんて絶対に言わない。
牧野サンのことだって――母さんは『彼女』って勝手に誤解してるだけだけど――
いい子だね・・・って誉めてくれたのに。
グラスの中覗き込みながら俯いた俺に、亜門は小さく笑いをこぼした。
『お前の年じゃ、わかんねーだろうな』って言いながら。

『・・・おかわり』

 残っていたカクテルを一気飲みして、グラスをすっと差し出す。
亜門はそれを黙って受け取ると、新しいグラスに、綺麗な紫色の液体を注いだ。

『・・・それもカクテル?シェイクしないの?』

『振るだけがカクテルじゃないんだよ。いろんな方法があるの。
 これはステアっていって、グラスに全部入れてから、軽く混ぜるだけ』

『ふーん・・・』

 知らなかった。カクテルって、あの銀色のシェイカーに材料入れて振るだけだと思ってたのに。

『今はカクテルの話してたんじゃないだろ?』

 話が変な方向に行くと思ったのかな。亜門にやんわり釘さされた。

『・・・魔女の話の続き』

『そう、魔女』

 小さな声で呟くと、誰も気付かないくらいに、至近距離にいる俺でさえわからないくらいに、軽く肩を落とす。
亜門のその仕草だけで、この先を話したくないのがわかった。
嫌なら言わなくていいよ・・・って言えたら楽なんだろうけど・・・ごめん、今日の俺は、そんなこと言えそうにない。
亜門の言葉を、ただひたすら待つだけ。

『・・・カシス・ソーダ。ただしノンアルコールだけどな』

『ありがと』

 差し出されたグラスに口をつけ、ちらりと亜門を見る。そしたら、しっかり目が合っちゃってさ。
思わず逸らしちゃったけど、すっげー感じ悪かったかもって思って。ごめん・・・って、小さな声で謝った。

『何が?』

『・・・何となく。気の進まない話させちゃったかな・・・って』

『・・・ガキに気を遣わせて、亜門さんもおしまいだな』

 ちょっと苦笑いしながら、俺の頭をくしゃりとなでた。









【メールが届いたよ】

 ジーンズのポケットに入れっぱなしのケータイが、突然ブルブルと振るえた。
ベッドに寝転んだまま確認。それはタイムリーに牧野サンからで。

【今日の模試、研修中に教えてもらった問題出たね。おかげで数学は完璧だったよ。ありがと】

 普段なら昇天しそうなくらいに嬉しい言葉。でも、今はとてもそんな風に喜べない。







『・・・俺は、魔女に選ばれた小道具だったんだよな・・・』

 長い沈黙の後、亜門がゆっくりと口を開く。
その言葉はさっぱり意味がわからなくて、俺は何度も何度も頭の中で半数した。
でも、その言葉のほんの少しさえ、理解することができなかった。

『いつもみたいにバイトしてたら、店に突然魔女が来てさ、俺のこと上から下まで舐めるように見て言ったんだ。
 「姫を陥落させることができたら、報酬を500万出す」・・・・って』

 その数字に、思わず咽た。『小道具』の意味は不明なれど、でも、何となく理解できた。
亜門が何か――おそらく、姫を『王子』から離すこと――に成功したら、ご褒美に500万円もらえるってことだろ。
・・・それって、俺の中の常識、かなりの勢いで超越してるんですけど。
でも、そんな風に1人慌てる俺を、亜門は全く無視。
新たに洗いあがったグラスを磨きながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
その表情はどこか苦しそうで、何だか見ていられなかった。

『俺もバカだったからさ、女引っ掛けて遊んで捨てて、それだけで500万もらえるなら・・・って、軽く引き受けた』

『・・・で、成功したの?』

 俺もバカじゃないから。これがただの『昔話』じゃないってことくらい、最初からわかってて。
とすれば、姫は牧野サンで、亜門が落とすように言われた女も、牧野サン。
王子のことはよくわかんないけど、きっと、あの男だろう、雑誌に載ってた、英徳大学の目つきの悪い男。
そして、亜門が『小道具』にされた理由は、王子とうりふたつだったから。

       

『・・・あいつが、簡単に落ちるような女だと思うか?』

『思わない・・・けど』

 牧野サンが、そんな簡単に乗り換えられるほど、簡単な女じゃないと思うけど。
亜門のこと、彼氏?って聞いたときも否定したけど。
東京から福岡へ来た――しかも、この男と一緒に――ことは事実だ。

『お前の思うとおり、あいつは落ちなかった。でもここへ来た』

 店の扉にかけてあるベルが、勢いよく鳴った。坂口さんが出迎えて、席に案内して。
結構な人数の団体だったのか、それとも何組もの客が重なったのか、店の中はいきなり飽和状態。
カクテルのオーダーも入ったし、これ以上ここにいちゃいけないと思って、亜門に一言、帰ると告げた。

『・・・また、来いよ』

 中途半端で悪かったな・・・とちょっとだけ苦笑して、小さく手を振った。




 公園のベンチに、どれくらい座っていたんだろう。
亜門と交わした会話を最初から反芻させて、何度も思い返して。
散歩中の犬が、ワン!と一声。その声でふと現実に引き戻される。

『・・・帰ろ・・・かな』

誰もいないけれど、誰かに聞かせるように呟いて、ため息と同時に立ち上がった。
姫と魔女。王子と小道具。
どんな結果で、どんな結末を迎えたかはわからないけれど、牧野サンが福岡に来たのは事実だ。
亜門とはどういう関係なのか、俺には何もわからないけれど。


                         





 部屋のロールカーテンと窓を開けて、空を仰いだ。
煌煌と照らす街灯のずっと向こう側に、ほのかに煌く星。折り畳み式のケータイを開いて、牧野サンにメールを打った。

【まだ起きてる?星、綺麗だよ】

 返事なんて来なくていい。
このメールを見て、彼女が空を見上げてくれればいいと思った。俺もずっと見てるから。
そしたら、離れている場所で、同じ星を見ていられるから。

 彼女はどんな気分で空を見上げるだろう。
俺の言葉だけ見て、俺のこと考えながら見てくれるだろうか。
それとも、東京にいる誰かのこと――ハナザワルイのことを思いながらだろうか。
どちらにしても、彼女が悲しい気持ちでいませんように・・・と思った。




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