32 「・・・ただいまー・・・」 誰にも聞こえないように小さく言って靴を脱いだ・・・んだけど。 「正宗?あんた今ごろ帰ってきたの?」 リビングで未だテレビを見ていた母さんが、ひょこりと顔を出した。 まだ起きてたなんて予想外。ちっと小さく舌打ちして、適当にうなずきながら階段を上る。 途中、下に降りていく弟とすれ違って。 「田村さんとこ行くとか言って、実は彼女と遊んできたんじゃないの?」 なんてこと言われた。冗談じゃない。 彼女―――きっと、牧野サンのこと言ってんだろうけど―――と遊んできて、こんな暗い顔でいるバカがいるか? じろりと睨んでやったら、わざとらしく肩すくませて。『兄ちゃんは怖いなぁ・・・』なんておどけた。 「・・・1人でバカ言ってろ」 まるで捨て台詞のように弟に言い捨てて、自分の部屋の扉を乱暴に閉める。 バタン・・・と、とてつもなく大きな音に少し驚きながら、ふらふらとベッドへダイブ。 昼間、母さんが布団干しておいてくれたみたいだ。 日なたの匂いがして、何故か牧野サンの笑顔を思い出した。 亜門の店は、9時半を過ぎた頃から急に混み始めて。とても話できる状態じゃなくなってきちゃってさ。 仕方ないから、また来るって言って、スタッフルーム借りて着替えて店を出た。 聞きたいことはたくさんあったけど、だからって仕事の邪魔をしちゃいけない。それくらい俺にもわかるから。 店を出たけど、まっすぐ帰る気にはなれなくて。 あたりまえだよね、いろいろ知っちゃったんだもん。 ローソンでミネラルウォーター買って、ふらふらと須崎公園へ入る。 手近なベンチに座って、ぼんやり街灯に照らされる景色を見てた。 犬の散歩してる人がいて、意外だったな。 思わず思い出しちゃった。 室見川でマリの散歩してたときのこと。 宮田のことですげー落ち込んでて、通りすがりの牧野サンに慰めてもらったんだっけ。 『今大切なのは、草野くんがどうしたいかでしょ?』 そう言い切った牧野サンのこと、本当に強いと思った。 でも、今ならわかる。 彼女は強い人なんじゃなくて、強くならなきゃいけなかったんだ・・・って。 強くならなきゃ、きっと『淋しい街』では生きていけなかったんだ・・・って。 『俺が実際目で見て聞いたことだけだから、ホントがどうなってるかなんて、よくわかんねーんだけどな』 亜門はそう前置きしてから『昔話』を語ってくれた。 ヒロインは、とてつもない金持ち学校に通う、一般市民の苦学生。 ヒーローは、同じ学校に通う、日本屈指の大企業のご子息。 普通なら出会わないはずの2人が、普通じゃない恋をした。 まるで、安っぽい映画やドラマのキャッチコピーみたいだと思った。 そんなのは、作り物の世界だけでしか存在しないと思ってた。 でも、本当に居たんだ・・・って、亜門はゆっくりと言った。 『姫と王子がどんな出会い方をして、どんな風に恋に落ちたかは知らない。 その2人は俺とは全く別の世界の人間だったから。俺はただなんとなく大学に通って、バイトして、女と遊んで・・・』 『・・・・・』 サマー・デライトを口に含む。シュワワ・・・という炭酸が・・・きつい。 同じ炭酸でも、コーラなんかはそんなに感じないのにな。甘くないからかな・・・。 どうでもいいことを、亜門の話を聞きながらぼんやりと考えた。 『これが作り物の話なら、姫と王子はめでたく結ばれました・・・ってなるんだろうけど、 現実はそんなに生易しいもんじゃなかった。王子の気持ちに気付いた魔女が怒り出したんだ』 『魔女?』 『王子の母親。そりゃ、気持ちもわからないでもないけどな。将来会社を背負って立つ身の息子が、 昔風に言えば「どこの骨ともわからない娘」と付き合ってるなんてさ』 『・・・俺にはわかんない』 なんで?どうしてダメなんだ?自分の息子が好きになった女なのに。 ウチの母さんだったら、きっと諸手を上げて受け入れてくれる。 たとえ自分が嫌いなタイプだとしても、付き合うな・・・なんて絶対に言わない。 牧野サンのことだって――母さんは『彼女』って勝手に誤解してるだけだけど―― いい子だね・・・って誉めてくれたのに。 グラスの中覗き込みながら俯いた俺に、亜門は小さく笑いをこぼした。 『お前の年じゃ、わかんねーだろうな』って言いながら。 『・・・おかわり』 残っていたカクテルを一気飲みして、グラスをすっと差し出す。 亜門はそれを黙って受け取ると、新しいグラスに、綺麗な紫色の液体を注いだ。 『・・・それもカクテル?シェイクしないの?』 『振るだけがカクテルじゃないんだよ。いろんな方法があるの。 これはステアっていって、グラスに全部入れてから、軽く混ぜるだけ』 『ふーん・・・』 知らなかった。カクテルって、あの銀色のシェイカーに材料入れて振るだけだと思ってたのに。 『今はカクテルの話してたんじゃないだろ?』 話が変な方向に行くと思ったのかな。亜門にやんわり釘さされた。 『・・・魔女の話の続き』 『そう、魔女』 小さな声で呟くと、誰も気付かないくらいに、至近距離にいる俺でさえわからないくらいに、軽く肩を落とす。 亜門のその仕草だけで、この先を話したくないのがわかった。 嫌なら言わなくていいよ・・・って言えたら楽なんだろうけど・・・ごめん、今日の俺は、そんなこと言えそうにない。 亜門の言葉を、ただひたすら待つだけ。 『・・・カシス・ソーダ。ただしノンアルコールだけどな』 『ありがと』 差し出されたグラスに口をつけ、ちらりと亜門を見る。そしたら、しっかり目が合っちゃってさ。 思わず逸らしちゃったけど、すっげー感じ悪かったかもって思って。ごめん・・・って、小さな声で謝った。 『何が?』 『・・・何となく。気の進まない話させちゃったかな・・・って』 『・・・ガキに気を遣わせて、亜門さんもおしまいだな』 ちょっと苦笑いしながら、俺の頭をくしゃりとなでた。 【メールが届いたよ】 ジーンズのポケットに入れっぱなしのケータイが、突然ブルブルと振るえた。 ベッドに寝転んだまま確認。それはタイムリーに牧野サンからで。 【今日の模試、研修中に教えてもらった問題出たね。おかげで数学は完璧だったよ。ありがと】 普段なら昇天しそうなくらいに嬉しい言葉。でも、今はとてもそんな風に喜べない。 『・・・俺は、魔女に選ばれた小道具だったんだよな・・・』 長い沈黙の後、亜門がゆっくりと口を開く。 その言葉はさっぱり意味がわからなくて、俺は何度も何度も頭の中で半数した。 でも、その言葉のほんの少しさえ、理解することができなかった。 『いつもみたいにバイトしてたら、店に突然魔女が来てさ、俺のこと上から下まで舐めるように見て言ったんだ。 「姫を陥落させることができたら、報酬を500万出す」・・・・って』 その数字に、思わず咽た。『小道具』の意味は不明なれど、でも、何となく理解できた。 亜門が何か――おそらく、姫を『王子』から離すこと――に成功したら、ご褒美に500万円もらえるってことだろ。 ・・・それって、俺の中の常識、かなりの勢いで超越してるんですけど。 でも、そんな風に1人慌てる俺を、亜門は全く無視。 新たに洗いあがったグラスを磨きながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 その表情はどこか苦しそうで、何だか見ていられなかった。 『俺もバカだったからさ、女引っ掛けて遊んで捨てて、それだけで500万もらえるなら・・・って、軽く引き受けた』 『・・・で、成功したの?』 俺もバカじゃないから。これがただの『昔話』じゃないってことくらい、最初からわかってて。 とすれば、姫は牧野サンで、亜門が落とすように言われた女も、牧野サン。 王子のことはよくわかんないけど、きっと、あの男だろう、雑誌に載ってた、英徳大学の目つきの悪い男。 そして、亜門が『小道具』にされた理由は、王子とうりふたつだったから。 『・・・あいつが、簡単に落ちるような女だと思うか?』 『思わない・・・けど』 牧野サンが、そんな簡単に乗り換えられるほど、簡単な女じゃないと思うけど。 亜門のこと、彼氏?って聞いたときも否定したけど。 東京から福岡へ来た――しかも、この男と一緒に――ことは事実だ。 『お前の思うとおり、あいつは落ちなかった。でもここへ来た』 店の扉にかけてあるベルが、勢いよく鳴った。坂口さんが出迎えて、席に案内して。 結構な人数の団体だったのか、それとも何組もの客が重なったのか、店の中はいきなり飽和状態。 カクテルのオーダーも入ったし、これ以上ここにいちゃいけないと思って、亜門に一言、帰ると告げた。 『・・・また、来いよ』 中途半端で悪かったな・・・とちょっとだけ苦笑して、小さく手を振った。 公園のベンチに、どれくらい座っていたんだろう。 亜門と交わした会話を最初から反芻させて、何度も思い返して。 散歩中の犬が、ワン!と一声。その声でふと現実に引き戻される。 『・・・帰ろ・・・かな』 誰もいないけれど、誰かに聞かせるように呟いて、ため息と同時に立ち上がった。 姫と魔女。王子と小道具。 どんな結果で、どんな結末を迎えたかはわからないけれど、牧野サンが福岡に来たのは事実だ。 亜門とはどういう関係なのか、俺には何もわからないけれど。 部屋のロールカーテンと窓を開けて、空を仰いだ。 煌煌と照らす街灯のずっと向こう側に、ほのかに煌く星。折り畳み式のケータイを開いて、牧野サンにメールを打った。 【まだ起きてる?星、綺麗だよ】 返事なんて来なくていい。 このメールを見て、彼女が空を見上げてくれればいいと思った。俺もずっと見てるから。 そしたら、離れている場所で、同じ星を見ていられるから。 彼女はどんな気分で空を見上げるだろう。 俺の言葉だけ見て、俺のこと考えながら見てくれるだろうか。 それとも、東京にいる誰かのこと――ハナザワルイのことを思いながらだろうか。 どちらにしても、彼女が悲しい気持ちでいませんように・・・と思った。 |