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「理由・・・と言われましても・・・」


怖くて逃げ出そうと思ったけど、椅子の上じゃそれも上手くいかない。バランスを崩した俺は、ガタン・・・と派手な音を立ててそこから転がり落ちた。膝と肩をフローリングにしこたまぶつける。・・・半端なく痛い。うう・・・と倒れたままうなっていると、亜門が手を差し出した。それにつかまり、やっぱり唸りながら立ち上がる。


「大丈夫か?」

「・・・あんまり」

「悪い。お前があんまりびくびくしてるから、ちょっといじめてやろうと思っただけなんだが・・・」


 これのどこがちょっとだよ!と思ったけれど、そんな言葉を発するような余裕もない。呼吸をするので精一杯だ。ちょっとだけ浮かんだ涙を右腕でぬぐいながら亜門を睨む・・・けど、その顔は心配そうな表情だったから、とりあえず許すことにした。


「・・・やっぱり大丈夫」


 もう一度椅子に座って落ちるのは嫌だから、今度はフローリングに正座する。その姿を見て苦笑した亜門は、そこに座るならこっちに来い、とソファを指差す。ソファなら、もしまた落ちても大したダメージにはならないと判断した俺は、そそくさと場所を移動した。うん、ここなら大丈夫だ。壁に掛けられた時計を見ると、長針はほんの数ミリで「0」に重なろうとしている。俺に残された時間は・・・あと、わずかだ。牧野サンがここから助け出してくれるのか、それとも亜門に取って食われるのかは、まだわかんないけど。


「・・・俺、色々考えてみたけど、やっぱりわからない」

「?」

「亜門が、俺をガキって怒った理由」

「・・・ああ」


 ダイニングチェアに座り、足を組んでコーヒーを飲む亜門の姿は、ちょっと――いや、だいぶかっこいい。俺もあんな風になれるのかな、と一瞬思ったけど、すぐに却下した。あの背の高さと足の長さは無理だ、と父親の姿を思い浮かべてがっくりした。


「例えばさ、牧野サンがこっちにいることが法に触れてるとか、東京でものすっごく困ってる人がいるとか、待ってる人がいるとか、そういうのだったら帰らなきゃいけないんだろうけど、今の牧野サンにはそういうものってないんでしょ?弟だってこっちにいること知ってるし、連絡も取ってるみたいだし。まあ、あの花沢うんぬん・・・っていうのは、どういう人なのかよくわかんないけど、牧野サンの彼氏とかじゃないし」

「・・・」

「彼氏、っていうか元彼、っていうか・・・ドウミョウジは、牧野サンのことすっかり忘れちゃってるっていうし。それならこっちで進学するっていうのも、全然アリだと思う」

「お前は東京行くのに?」

「そりゃ、自分本位で考えればそうだけどさ。俺が東京行くから、牧野サンも東京戻るっていうのがいちばん嬉しいけどさ・・・でも、牧野サンは東京が嫌なんでしょ?こっちに来て、元気になったんでしょ?だったらこっちにいればいいと思う。離れ離れは悔しいし、同じ場所に居られたら・・・って思わないことは無いけど、それでも牧野サンが笑っていられることのほうが大事だと思うから。夏休みとか冬休みとかに、俺がこっちに戻ってくれば彼女には会えるんだし」

「・・・牧野のこと、ちゃんと考えてるんだ」

「そりゃ、一応好きな子ですから」


 『好きな子』と言葉に出した途端に恥ずかしくなる。うわー、顔が熱いよ、俺。そうだよ、俺牧野サンのこと好きなんだよ・・・と、今更ながらに再認識してしまった。好きだぜ、好きなんだぜ!・・・みたいな?

 立ち上がった亜門は、カフェオレのマグカップを持ち、俺に手渡す。ありがと、と言って受け取ったそれは、まだ熱い。ずずず・・と口をつけると、やっぱりふんわりと甘かった。それから俺の隣に乱暴に腰を下ろし、両手にはさんだマグカップを弄りながら、お前は優しいのな、と言う。皮肉っぽいわけでもなく、感心しているようでもなく、ただ淡々と。



「・・・例えば、さ」

「ん?」

「お前のクラスで、いじめがあったとする。お前どうする?」

「・・・わかんない」


 いろんな意味で。クラスメイトがいじめに遭っていたら、俺はどうするのか。それ以前に、どうして亜門がこんなことを言い出すのか。


「少なくとも、いじめに加担したりはしないと思う。そういうのってくだらないし、自分には関係ないし、そいつのこと、気に入らない奴だけでやれば?って。・・・18にもなってそんなことしようとする奴のほうが、逆にいじめの対象になるような気がするけど」

「いじめられてる奴が、辛くて学校来なくなったら、どう思う?」

「・・・ガッコに来て辛い目に遭うんだったら、来なくてもいいと思う。ガッコに来なくて辛い目に遭わずに済むんだったら、休めばいいと思う」

「・・・ふうん」


 マグカップに口をつけて、何かを考えるように窓の外を見る。俺も、同じことをしてみた。窓の外に、探していた答えがあるかもしれないなんて、ありえない期待をしながら。


「じゃあ・・・さ。もし、そのいじめられて学校に来なくなったのが、お前の大好きな田村くんとやらだったら?」

「え・・・・」


 予想外の質問に言葉が詰まる。田村がいじめられるって。いじめられて、ガッコに来なくなるって・・・


「・・・絶対にありえないと思うんですけど?」


 まず、あの田村が人に恨まれるとは思えないし、万が一恨まれて無視とかされたとしても、意に介さないような気がする。無視?すれば?みたいな。それ以前に、無視をされることに気付くかどうかも疑問だ。


「だから、もし・・・って言ってんだろ。考えろ」


 ふてぶてしい亜門の態度に内心不満を覚えつつも、有り余る想像力を以ってしても不可能かもしれないと思わせる無理難題に取り掛かる。田村がいじめられて、登校拒否になったら・・・か。

「単なるクラスメイトみたく、休んで楽になるなら休めばいいって言えるか?」

「・・・・」


 言える・・・とは、言えなかった。多分、言えない。だって田村は大切な友達だから。そして、登校拒否は根本的な解決にはならないし、単なる『逃げ』でしかないから。一時的な逃亡で済めばいい。でも、この逃亡が、ずっと先まで取り返しのつかないことになるかもしれないんだから。取り返しのつかないこと。亜門が言ったこと。・・・牧野サンは、東京から『逃げて』来たんだとしたら。

「・・・」

「・・・」

「・・・ねえ」

「ん?」

「それって、東京で牧野サンがいじめられてた・・・ってこと?」

「・・・はぁ?」


 だって、いじめの話なんて始めたから、と言うと、亜門は目を見開いて瞬きをして、それから大きな声で笑い出した。それから、マグカップを持っていない手で俺の肩をバシバシと叩く。『お前、面白すぎ!』とか言いながら。


「たとえ話に決まってんだろ。第一、牧野がいじめに屈するような女だと思うか?」

「・・・それは、あんまり思わないけど・・・」

「あー・・・久しぶりにこんなに笑ったわー・・・お前の妄想力も、なかなかすごいな・・・」

「・・・・」


 腹が痛いと言いながら笑い続ける亜門を尻目に、マグカップ片手に立ち上がる。腰に手を当てて一気飲みしてシンクへ返す。それから玄関に向かい、靴を履いて外へ出た。全く失礼な奴だ。あんなに笑うなんて。亜門のことなんて忘れてやる。あんな奴、マジで忘れてやる!と腹の底で決心しながら、牧野家のインターホンを押した。


そしてクリスマスのお話に続きます。
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