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「・・・逃げたって、いいんじゃないかな・・・」


 握った手に少しだけ力を入れて、ポツリと呟く。ゆっくりと、適切な言葉を探しながら。口に出して良い事と悪いことの境界線を探りながら。


「牧野サンが『逃げよう』って一瞬でも思ったんだったら、それは間違いじゃないと思う。絶対。もしあの時逃げないで、あいつらに会ったらすごいパニックになるかもしれなかったし、逃げたから、何も起こらなかったわけだし・・・」


 もし、あの場で牧野サンが逃げずに、例の3人と『感動の再会』とやらに花を咲かせてしまったら・・・きっと、ただじゃ済まない。騒ぎ立てる3人と驚く牧野サン。騒ぎを聞きつけて徐々に集まりだす城南生。その場にいたショコやユカからは『誰?』と聞かれるだろうし、聞かれたら、答えなきゃいけない。そうしたら、話したくない過去まで話さなければいけないはめになるかもしれない。その上3人からは東京から逃げた訳やこの地を選んだ理由を追求されるだろう。辛い過去を蒸し返されるのは、きっと牧野サンにとって何よりも辛いこと。


「あの人たち、ホテル取ってるような事言ってた。って事は、まだしばらく九州にいるのかもしれない。牧野サンを、探すのかもしれない。牧野サンはどう考えるかわかんないけど・・・俺は、良かったかも、って思う」

「・・・?」

「もちろん、居場所がばれそうなのは・・・大変なことだけど、でも、相手がそうしていることが分かれば、牧野サンも覚悟を決めれるだろうし、色んな対処方法考えられるから。ただ会いに来てくれただけなら、それを喜べばいいし、もし・・・ドウミョウジが、その・・・どうにかなったんだったら、それに対して、自分がどうしたいのかっていうのを、ゆっくり考えられると思うし・・・」


 余計なことを言っていませんように、と祈りながら――そんな祈り、無意味だってわかってるけど――ゆっくりと言葉を運ぶ。


「牧野サンは、どうしたい?もし・・・ドウミョウジの、記憶が戻ってたら・・・東京に帰りたい?」

「・・・」

「それとも、このまま福岡に残りたい?」

「・・・・・」


 暫く俯いてだんまり決め込んだ後、牧野サンは俺の手を軽く振り払って、す・・・と立ち上がった。その仕草はあまりにも突然過ぎて、一瞬やり過ぎた、と血の気が引いた。けれど、特に怒った様子もなく、くるりと振り返って『そろそろ帰ろう』と笑う。

      

返事を待たずに歩き出したから・・・慌てて追いかけて、その場にマリを忘れてしまいそうになった。結び付けていたリードを急いで外し、小走りで牧野サンの横に立つ。彼女が左側で、俺が右側。ふと、バンプの『スノースマイル』と同じだ、と思った。冬が寒くって本当に良かった・・・っていう、あの曲だ。


「あ、あの・・・ゴメン、俺、深入りしすぎた?」

「・・・・・」


 やっぱり、牧野サンからの返事はなかった。夜の静寂が身を包む。1人で抱いている罪悪感が、少しだけそれを気まずいものに思わせた。時折聞こえるマリの息だけが、この空気を少しだけ和ませてくれた。


「・・・進路希望調査」

「え?」


 大通りに差し掛かり、街の空気が騒がしさを纏い始めた頃、ようやく牧野サンが口を開く。ここまで来るのには数分、長くても10分ほどしかかかっていないのに、俺には永遠に感じた。


「あたしね、進路希望調査表、まだ出してないの」


 知ってる、とは言えなかった。だって、あれは偶然が重ならなければ知りえない事だから。偶然亜門の店に行って、偶然手伝いをしてて、偶然崎やんが店を訪ねて、亜門の機転で見つからずに済んで、シンクの下で盗み聞きしたことだから。そういえば、あの時亜門は『本人次第』のような事言って、少し突き放してるように見えたっけ。


「・・・うん」


 どう返事をしたら良いのか分からず、とりあえず曖昧に頷く。その返事が満足するものだったのか、はたまた端から返事など期待していなかったのか、さして気にするでもなく、牧野サンは言葉を続けた。


「模試の時も、志望校書かなかったんだよね」

「・・・」

「それは、行きたい大学がないからじゃないの。大学に行くこと自体・・・迷ってたから」

「・・・どして?」

「・・・自分でも、よく分かんない。でも、早く『1人前』になりたかったんだと思う。学生って色んな庇護の下にあって、『許される』って甘えがあるけど・・・自分で働いて暮らしていく中には、責任も付きまとうし・・・誰にも何も言われずに、自分で生きていきたかったから・・・」


 牧野サンは振り返って俺を見た。その表情は想像していた以上に明るくて。安心すると同時に、不安にもなる。一体牧野サンは、何に安心して、何を不安に思っているのか、と。


「きっと、早く追いつきたかったんだと思う。道明寺のお母さんに。『社会人』っていう意味で、同じフィールドに立ちたかったのかな。絶対無理な話なのにね・・・」

「・・・・」

「でもね・・・最近思うんだ。そんなに急がなくてもいいんじゃないかな・・・って。奨学金もらって進学して、4年間で見聞広めて、大きな大人になるのも、悪くないかな・・・って」

「・・・うん」


 気付けば、もう牧野サンのアパートの前だ。一緒にいる時間は、あまりにも短かった・・・と、思う。


「知らない土地で1人、は辛いけど・・・こっち・・・福岡にいれば、ショコも田村くんもいるし、亜門もこっちで仕事続けるって言ってるし・・・寂しくないと思う。だから・・・福岡の大学に進学するよ」


 じゃあね、と手を振って、牧野サンは自分の部屋へと向かう。けれど、アパートの門に手をかけたところで思い出したように振り向き、にこりと笑った。


「こっちへ来たときは、そんなこと全く考えなかったのにね・・・こんな風に考えれるようになったのって、道明寺のことに踏ん切りがついたからなのかなって思うよ。それと・・・草野くんがいたから」


 そのまま俺の言葉を待たずに、『また明日!』と牧野サンは部屋へ消えた。俺はといえば、この告白めいた言葉に、情けなくも前身硬直だ。いやいや、告白めいた、だなんて俺の勝手な思い込みっていうか、希望的観測なんだけど・・・ちょっと、嬉しいかも。

 牧野サンと一緒にいる時間は、あまりにも短かった・・・と思う。けど、勇気を振り絞ってここへ来て良かった・・・と、心の底から思った。


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BGM♪BUMP OF CHIKEN*スノースマイル