116


「お疲れ様・・・・」

「全くです・・・・」


 午後10時半。亜門の部屋の扉をカチリ、と閉めた瞬間、牧野サンが笑いながらそう言った。俺はといえば、もう息は切れ切れ疲労困憊、生きてこの部屋を出られたことが奇跡だと思った。いや、マジで。

 『小休憩』という名の夕食タイム。牧野サンが作ってくれた卵とネギの簡単チャーハン――意外と美味しくて、感動した――と、予め亜門が冷やしておいてくれたお茶で簡単に終わらせ、恐怖のセンセイチェンジ。まるで憑き物が落ちたかのように爽やかな笑顔で亜門の前に座る直井と、まるで断頭台へ導かれる気分で坂口さんの前に座る俺。そして、そんな俺たちを複雑そうな表情で交互に見ていた牧野サン。ちくしょう、あの時坂口さんの顔見たりしなきゃ、今でも亜門の前に座れたのに。最初は嫌で仕方なかった『バカ・アホ・受験生の資格無し』の言葉が懐かしくさえ感じた。


「でも、直井くんのときほど怖くなかったでしょ?」

「だって俺、数学得意だもん・・・牧野サンも、一緒にこっち来ればよかったのに」

「・・・いや・・・あれは怖いから遠慮したいかな・・・」


 一瞬顔を見合わせて、そして笑う。そして、帰りがけに坂口さんが笑顔で言った一言を思い出した。『マサムネくん、これで160点取れなかったらどうする?』って。どうするってどうするって・・・・何?指の1本でも切れとか、そういう話なの?っつか、むしろ『カンニングしてでも取れ』って事なんだろうね、きっと。


「でもさ、坂口さん怖かったけど、わかりやすかったよ」

「そうなの?」

「うん。ガッコのセンセなんかよりずっといい説明してくれたし。俺、わかんなかった複素数の問題、最後まで解けるようになったよ」

「へぇ・・・じゃあ、あたしも教えてもらえばよかったな・・・って、今更だけど」

「ホント今更だよ!」


 ちょっと声が大きくなる。でも、今は夜だって事思い出して、声のトーンを落とした。亜門にはピンポンダッシュだったり、ドアを思いっきり叩いたり、迷惑かけっぱなしだもんな。夜中に亜門宅の客が騒いでた、なんてウワサになったら、肩身が狭いことこの上なし、のはずだ。それに気付いたのか、牧野サンもしまった、という表情を浮かべて、両手で口を押さえる。そして、ひそひそ話開始。


「そういえば、直井くんは?」

「長文問題が終わってないって、まだやってる。あいつも必死だからなぁ・・・・」


 あやのちゃんとかわしたという無謀な約束。今度のマーク模試で700点取るってやつ。それには及ばなくても、できることはちゃんとやって、少しでも近い点数取りたいっていう、ヤツの気持ちは痛いほどによくわかる・・・ような気がしないでもない。三行半突きつけられて崖っぷちに立たされて、起死回生を試みてなりふり構わず大見得切っちゃうのは仕方ないのかな・・・って。でも、勝ち目のない賭けはよくないよ、やっぱり。


「あやのちゃんと何か約束したんだよね?直井くん」

「・・・知ってるの?」


 驚いてそう尋ねると、牧野サンは少し気まずそうに『2人がケンカしてるところに、たまたま居合わせちゃった』と笑った。火曜日の昼休み、体育館に忘れ物をとりに行く最中、何か言い争いをしている――というよりも、あやのちゃんが一方的に怒り、それに対してびくびくしている――2人に遭遇したそうだ。その場はにっこり笑って立ち去ったけれど、見て見ぬふりはできない――ここらへん、牧野サンらしいよね――って事で昨日、本を返しに行く口実を作ってあやのちゃんを訪ねたらしい。


「あやのちゃん、何か言ってた?」

「今日のお昼、2人で少し話したけど・・・困ってたよ」

「困ってた?」

「だってね、直井くんに頑張って欲しくて、自分の夢かなえるために頑張って欲しくてちょっと突き放しただけなのに・・・って。あやのちゃん、別れたくてあんなこと言ったんじゃないよ。でも、直井くんすごくムキになってるって・・・」

「・・・それは仕方ないでしょ」


 男には、引けない時ってモノがあるんですよ・・・と言って、壁にもたれる。


「ただ、カッコいいトコ見せたいだけだよ、直井は。だって、あいつあの約束後悔してたもん」

「そうなの?」

「そりゃそうでしょ。第一、あやのちゃんと別れたかったり、ホントに好きじゃなかったりしたら、三行半突きつけられた時点でソウイウコトになってるって。今回のことは、あいつなりの頑張りじゃないのかな?あやのちゃんのこと好きだから、あやのちゃんのためにも自分のためにも頑張ります、っていう」

「・・・そうかなあ・・・」

「俺だって引けなかったことあるし。ほら、野球の帰り、牧野サンを無理やり室見川まで連れてった事とか」


 どんな反応するかな、と思ってちらりと彼女を盗み見る。大した明かりのないこの場所でも、牧野サンの頬が赤くなったことがすぐに見て取れた。やばい、真剣に取られたかな・・・ちょっと冗談で言ってみただけなのに。慌てて『なんてね』と冗談っぽく付け足すと、頬を膨らませて『バカ!』と俺の肩を叩いた。



「草野くんのそういうトコ嫌い!」

「あら、嫌われちゃった・・・・」


 自分でも不思議だけど、さっきの室見川のくだりや今みたいな言葉が、すらすらと喉から出る。それは、あの日の出来事をもう気にしていないって事なのかな。それとも、嫌われてないって事がわかっただけで、もう充分・・・って事なのかな。もしそうだとしたら、俺ってなんて健気なんでしょ・・・


「でもさ、牧野サンだってそういうことあったんじゃないの?相手のことを考えて、引くに引けなくなっちゃったこと」

「・・・・」


 考え込むように俯いて、俺の隣に、同じような恰好で壁にもたれかかる。考えてるのはきっと東京でのことやドウミョウジのことで。やっぱり不思議だ。前は牧野サンが昔のこと考えたり思い出したりしてるのが嫌で仕方なかったのに、今は全然平気だ。


「そう・・・だね、確かにあるね」


 東京飛び出して、福岡来ちゃったのなんてその典型かもね。と笑う彼女に、おかげで俺は牧野サンに出会えたけどね、と笑ってみる。するとさっきの考え込むような表情が明るいそれに変わり、一言『バカ』と言った。


「バカは酷いよね・・・」

「そう?」


 そうだよ・・・と呟いて、ちょっとだけ沈黙。直井、早く終わんないかな・・・と考えていると、隣の牧野サンが、突然ぱっと顔を上げた。


「ねえ草野くん、あたし・・・・」

「終わったっ!!!」


 牧野サンが何か言いかけたその瞬間、亜門の部屋の扉が勢いよく開いて、妙に晴れ晴れとした表情の直井が、思い切り伸びをしながら出てきた。


NEXT→
BGM♪スピッツ*魔法の言葉