107


「昨日、お兄ちゃんが天神に付き合ってくれてホント助かった。ありがとう。じゃ、あたしマリつれて先に帰ってるからね」

         

 わざとらしいほどに大きな声でそう言うと、妹は牧野サンを見て、大きく頭を下げた。そしてにっこり笑うと、マリのリードを持ち直して、足取り軽く、今来た道を戻る。途中、くるりと振り返ると『お兄ちゃん、帰りに田村さんちに寄ってくるんだよね?』と言った。


「あ・・・うん」

「じゃあ、お母さんにそう言っとく。今日のご飯はカレーだって言ってたよ。早く帰ってこないと、小兄に全部食べられちゃうかも」


 後でね・・・とひらひらと手を振り、マリに引きずられながら歩くその姿は少しずつ小さくなって・・・そのうち、夕暮れに溶けた。その場に残された、俺と牧野サン。しかし・・・貴重な言葉を聞いた。妹が俺に向かって『ありがとう』って言ったよ。しかも、いつもの『おおにい』じゃなくて、『お兄ちゃん』って呼ばれたよ。うーん、微妙だ。いや、兄だからその呼ばれ方は正しいんだけど・・・慣れてないから、背筋がむずがゆい。

 でも、あいつのおかげで助かった。世間一般、わかりやすい呼び名で呼んでくれたことも、晩飯の話題をふってくれた――キョウダイって事実に、ますます真実味が加わるじゃないか――事も、他のキョウダイの話をふってくれたことも。流石は我が妹。なかなか侮れない。心の中で、滅多しない感謝を妹に送っている隣で・・・小さく息を吐く音が聞こえた。そして気付く。


「あ・・・ごめん」


 牧野サンの腕、ずっと掴みっぱなしだったって事。ぱっと離して慌てて謝る。結構強く握っちゃってたけど・・・大丈夫かな。『痛かった?』と聞いてみるけど、返事は・・・ない。ぼんやりと正面――妹の消えた方をじっと見て、『妹・・・』と、小さく呟く。


「・・・牧野サン?」


 もう一度呼ぶと、ふと我に返ったように何度か瞬きをし、声がする方向を見る。そして俺を見つけて・・・突然、顔の前で両手をブンブンと振った。その様子は、さっきまでのとげとげしいものとは全然違って・・・一瞬、可愛いと思った。けど・・・


「牧野サン?!」


 太陽が沈んで、公園の街灯が灯る。青白い光が一面に広がって・・・思わず叫んだ。だって、牧野サン泣いてるんだもん。ひっくひっく肩を揺らしてるわけでも、号泣してるわけでもないけど、でも、フツーの表情してるのに、涙がポロポロ落ちてるのって、結構びっくりすると思う。ってか、びっくりした。

 予想外の出来事に、妹のおかげで幾分冷静になた頭がまたパニック起こして。ジーンズのポケットに手を入れるけど、どこにもハンカチなんて洒落たものは入ってなく。せめてポケットティッシュでも・・・と思ったけどやっぱり出てこない。ジャケットのポケットにも祈りを込めて手を入れてみたけど、出てきたのは、いつか田村と行った映画の半券だけ。涙を拭けるようなものは何もない。でもとりあえず拭かなきゃ・・・と思って、牧野サンの顔を両手で挟んで、袖口でごしごしと濡れた目をこすった。ぎゅっと目を閉じて俯いてた牧野サンが、ふとした拍子に顔を上げて・・・




「・・・ご・・・ごめんっ!」


 バカ俺!何て事してんだ?!何か、何か・・・顔近すぎ!今のじゃまるで、キ、キスするみたいだったじゃんか・・・慌てて顔からぱっと両手を離して、すごい勢いで後ずさる。でも、後ろ歩きしてる間に足がもつれて・・・勢いしりもちついて転んだ。尾てい骨をコンクリートで打ち付けて・・・一瞬、目から星が散ったような気がした。これ、ハンパじゃなく痛いんですけど。涙こらえて立ち上がって、打ち付けた箇所を何度もさする。
 牧野サンをちらりと見ると目が合う。でも、逸らされなかった。少しぎこちなかったけど笑って、『大丈夫?』と言ってくれる。目は真っ赤だったけど、涙は既に止まっていて。痛くて大変な目にあった・・・と思ったけど、彼女が笑ってくれたから、痛い目をした甲斐があった。


「・・・何とか」

「草野くん、おっちょこちょいだからね。気をつけてよ」

「・・・うん。ありがと」


 妙に和んでしまった空気。理不尽な言いがかりをつける牧野サンに言いたかった言葉はすっかり潜んでしまって、この場をどう取り繕ったらいいのか、また別の意味で焦る。このままサヨナラ・・・ってワケにはいかないよな?でも、今更責めるわけにもいかないし。うーん、どうしたものか。

 まずここで帰っていいのか、それとも声をかけるべきなのか。次に声をかけるとしたら、何と言えばいいのか。そんなこと考えてたら・・・牧野サンの姿が、視界から急に消えた。一瞬、自分の目を疑ったけど・・・超能力者じゃないんだから、そんなことありえないだろ・・・と辺りを見回すと、何故かベンチにちょこんと腰掛けてて。どうしたの?と聞くと、少し気まずそうに、『力が抜けちゃった・・・』と答えた。


「妹さんのこと、昨日天神で会ったときからずっと彼女だと思ってたから・・・」

「・・・アレは誰でもそう思うよね。ってか、そう思わせるために、あいつもやってたから・・・」

 牧野サンの言葉に、うんうんと頷く。・・・あれ?でも待て。彼女だと思ってたのが実は妹でした・・・って分かって、どうして牧野サンの足から力が抜けちゃうんだろう。不思議に思って首をひねる。そして、聞く。


「・・・なんで、彼女じゃないって分かって力が抜けるの?」


 ・・・あれ?もしかして、今のって触れちゃいけない問題だったんだろうか。言ってから気付いた。牧野サンがびくって体を強張らせて、俺の顔見て目を大きくするから・・・ちょっと、やばいかも。ホント、自分で言っておきながら何だけどさぁ・・・ゴメン、マジで妄想していい?っつか、都合の良い解釈していい?牧野サン、俺に彼女がいるかも・・・って思って、傷ついてくれたの?

 そんなこと考えたら、俺までドキドキしちゃって立ってるの辛くなって・・・牧野サンの横に、ちょこんと座った。そして、『変なこと聞いてごめん』と謝る。都合の良い妄想は考えてて心地良いし楽しいけど、そのとおりにならなかった時のショックって、案外大きいんだよね。俺、いつもそれで失敗してるし。特に今回のことじゃ、もう嫌って程やられてるから・・・そろそろ現実に戻らなきゃ。ブンブンと軽く頭を振って妄想を外に追い出して。


「もう暗いし、寒くなってくるよ。俺、送る・・・」


 そう言いながら立ち上がろうとして・・・息が止まりそうになった。だって、だって・・・牧野サンが俺の手をぎゅっと握ったんだよ?細くて冷たい指で、俺の右手を。そういえば・・・と、ふと思い出す。城南祭の前、俺も同じように牧野サンの手を握っちゃったこと。あの時、牧野サンに帰るって言われて、1人で置いていかれるような気がして妙に淋しくなったっけ。今の牧野サンも、あのときの俺と同じ気持ちなのかな・・・って思ったら、振り払ったり動揺してる姿を見せたりしちゃいけないのかな・・・って思って。できるかぎり冷静な声で『どうしたの?』と聞く。暫くは、何も答えずにだんまり決め込んでた牧野サンだったけど・・・


「・・・彼女じゃないって分かって・・・」

「うん?」

「彼女じゃないって分かって、すごくホッとしたの。先週、草野くんに彼女がいるって分かって、何でかわかんないけど、ものすごくショックだったの」

「・・・うん」

「あたしのこと好きって言った1週間後に、あんなに仲良さそうな彼女がいるなんて・・・裏切られた気がした。自分勝手だけど、騙された・・・って思った」

「・・・・」

「草野くんのこと好きにならないって言ったのはあたしだし、直井くんの前でも、『付き合ってないから』なんてひどいこと言っちゃったし・・・彼女がいたって文句言えないのに、責める資格なんて無いのに・・・」


 大きく深呼吸して、空を見上げた。薄暗がりの中に、光る星ひとつ。牧野サンの言葉はたどたどしかったけど・・・気持ちはわかったような気がした。それと同時に、自分の気持ちも満ちていく。すごく単純っていうかちっぽけっていうか安上がりっていうか・・・俺の求めてた『幸せ』って、案外小さいものだったみたいだ。


「・・・俺、全然急いでないから」

「・・・・」

「嫌われてないなら、それでいいから・・・」


 もとより、好きになってほしかったわけじゃない。ただ、人より――みんなより少しだけ、近くにいたいと思ったんだ。隣に立って、他愛の無い話をして、笑った顔を見られればいいと思った。もちろん、好きになってくれたらうれしいけど・・・そんな贅沢は望まない。人を――俺を好きになるのが怖いというのなら、好きになんかならなくていい。


「どうでもいいことで笑ったり、他愛の無いこと話し合ったり、時々・・・並んで歩ければ、それで充分だから・・・」


 少しかっこつけてるかもしれないけど、でも言った言葉は嘘じゃない。心の底から、本気でそう思うから。


「・・・ありがと」


 小さな声でそういいながら、牧野サンは俺の手を握る手に、少しだけ力を込めた。その暖かさを感じながら、人って嬉しくて泣きたくなることもあるんだな・・・なんて、1番星を見ながら思った。



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★107(今回のお話)と番外編は繋がっています。番外編を読んでから続き108を読むことをお勧めします。

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BGM♪:BUMP OF CHICKEN とっておきの唄