夏休みの真っ只中。

英徳大学の学生館をでると、絵に描いたような夕焼け空が浮かんでいた。

燃えるようなオレンジ色と、ピンク色に光る雲。

ゆるやかなV字を描いて飛ぶ、鳥の影――――。

最後にあいつの顔を生で見たのも、こんな夕暮れ空だった。

会いたいな、あいつに。

昼となく、夜となく、あたしはいつも、そう思ってる。

寂しいよ―――――。

でも、そう。こういう時は、口に出して言えばいい。

あたしは大きく息を吸い込んだ。

そして、はっきりと、言葉にしてみる。


「大好きだよ、道明寺。あたしがあんたを幸せにしてあげるんだから・・・だから、早く過ぎて、残りの時間・・・」


吐き出すようにそう言って、あたしは頷く。

うん。大丈夫。

これはあたしのおまじない。

道明寺に最後に会った、パリ以来の、あたしのおまじない。











 高校を卒業してNYに行ったあいつは、 病床に臥している父親の代わりに道明寺の跡継ぎとして必要なスキルを詰め込まれる日々を送っている。四六時中秘書連中や英語の教師にくっつかれ、見習いとはいえ事実上の総帥として実務をこなしている。けれど『学生』という身分上、学業を疎かにすることはできず、頭に『超多忙』と付く二束の草鞋状態だ。

 そんな多忙な中でも、あいつは時間が空けばマメに電話もくれるし、メールもくれる。テレビ電話の画面を通して同じ時間を共有する事もできる。無機質の画面にはかえって距離を感じることもあるけれど、今、あいつが笑ってるんだと確認できるその時間は、あたしにはとって貴重なものだ。

 だけどやっぱり、目に見えないライン一本のつながりは心もとないものだった。

 あいつの夜はあたしの昼。あたしの昼はあいつの夜。距離だけではなく時間まですれ違う毎日。

 そして、離れてから1年経った卒業間近の日。テレビ電話で話をしていたあたしの背後に類の姿を見つけて、あいつは怒りまくって捨てゼリフを吐き、電話を切った。その後何度かけなおしても、つながらない。激怒した勢いで電源を落としてしまったのだろうという事は、すぐに想像がついた。

 電話もメールも、どんなに伝えたいことがあっても、相手に一方的に切られてしまったらそれで終わり。怒っているのか単に忙しいだけなのか、あれから時間を置いてもあいつとは連絡がとれなくなった。

 言い訳すらできない距離のもどかしさ。
この距離さえなけえば、嫌でも学校で顔を合わせる事ができるし、ケンカになったとしても、言いたい事がもっときちんと言えるはず。

 四年なんてあっと言う間だと思っていたけれど、考えてみれば、あたしが道明寺と出会って過ごした時間の軽く四倍以上にもなる長さだ。どうして、離れても平気だなんて思えたのか。

 あたしは深いため息をついた。たったの一年で、こんな状態では、先が思いやられるばかり。あたしの頭の中にははっきりと、後悔という文字がうかんでいた。

 そして、静さんの結婚式に招待されて行ったパリ。本来なら、久しぶりにあいつとの嬉しい再会・・・になるはずだったのに。 「通り魔」事件に巻き込まれてしまったあたしは、さらにあいつの逆鱗に触れてしまった。

 間一髪で、あたしのことを助けてくれたあいつは、仏頂面のままさっさと一人で歩き出してしまった。 慌てて後を追いかけても、歩調をゆるめることすらしない、その背中にイラつきと怒りを感じて気持ちが萎えてしまう.。1年ぶりの再会だというのに・・・


「おまえの趣味か?」


 唐突に、あいつは振り返るとそう言った。


「え?何が?」

「俺に心配かけるのがだよ、アホが!」


 顔を青くして噛みつかれそうな剣幕で怒鳴られたあたしは、その怒りの底に、道明寺の激しい心配を感じた。


「ご、ごめん」

「まったく、てめーは、俺がいないとムホホ地帯か」


 マジメな顔で、怒りながらそういったあいつの言葉に、あたしは思わず、噴出してしまう。変わってない。相変わらず日本語弱いし、すぐ怒るし、自分勝手で俺様で。

 そして、変わらない、あいつがあたしを想ってくれる、その気持ち。

 教会の地下に据えられた小さな聖堂で、あいつはあたしをまったく信用できないと言い放ち、そして誓ってくれる。



「おまえがよそ見したら、何度でも取り返すからな」


 あたしの目をまっすぐに見据えて、なんの迷いもなく言うあいつに、あたしも自分の気持ちをきちんと伝えるべきだと思った。


――――ずっと、大好きだから―――― と。


 気持ちは十分に確かめ合う事ができたけれど、それはとても短い、束の間の再会だった。

 静さんの結婚式の後は、F3と一緒にとんぼ返りの日程だったあたしも、仕事が待ち構えているあいつも、ゆっくり話す時間もなくて、すぐに空港へ向かった。

 また別れるその時が来て、あたしは不覚にも泣きそうになった。どんなに気持ちが通じ合っても、会えない日々は足元の覚束ない暗闇の中を歩いている気分になる。不安がないなんて嘘だよ。離れていても大丈夫だなんて、どうしてそんな風に思えたんだろう。

 西日の指す空港で、あたしの手を握るあいつの大きな手は、昔と変わらず熱いくらいにあったかい。この手に何度泣かされたろう。この手にどれほど優しく癒されたろう。怒っていても、笑っていても、いつでも温かく包み込んでくれるこの手を、もう解かなければならない時間なのに、手放せなくて、あたしは泣きたい気持ちを堪えた情けない顔で、その手をギュッと握り返した。


「んな顔、すんな」


 そう言ってあたしの頬に触れたあいつの顔も、困ったように眉根が歪んでいて、切なげに表情を曇らせ、何かを言いかけた。


「一緒に、来るか?」


 それは、言葉ではなかった。あたしを見つめるその表情が、その顔が、口に出すよりも前に、確かに心の中に伝わってきた。あたしはその言葉を待っていたのかもしれない。その言葉を、ずっとずっと、期待していたのかもしれない。

 けれど、その言葉が道明寺の口から吐き出されることはなく、思い直したように、ふと柔らかく笑って、あたしのおでこを指で軽くはじいた。


「何度でも言うからな。俺はおまえの事は信用してねえ」

「なっ」


 はじかれたおでこに手を当てて道明寺をにらんだ。


「ケド、忘れんな。おまえだけが俺を幸せにできる。ほかの誰でもねえ、おまえだけだかんな。だから俺は何があっても、おまえの事は絶対に手離さねーからな。」


 そう言って、あたしの手を強く握りしめた。とたんに、視界が涙で白くかすんでゆく。あたしの体はそのまますっぽりと道明寺の腕の中に収まった。

 やっぱりさみしいよ。やっぱり、涙は止められない。

 だけど―――。離れていても、それでも、あたしの気持ちは変わらない。あんたはあたしが生まれて初めて唯一幸せにしてあげたいと思った人。だからあたしも何度でも言おう。離れてる分だけ、しつこいくらいに、何度でも、言葉に出して伝えなくちゃ。あたしは道明寺の顔を見上げて笑った。


「信用してくれないなら、あたしも何度でも言う。あたしが、あんたを幸せにしてあげる。ううん。幸せにしたいの」


 道明寺は大きく目を見開いてまじまじとあたしの顔を覗き込み、それから、少しだけ照れたように笑った。


「おう。当然だろ」


 その笑顔が、大きなガラスから差し込む西日を受けて、輝いて見えた。












 そして、あたしと道明寺はまた、ニューヨークと日本という、離ればなれの生活に戻った。








 英徳の門をくぐると、燃えるような残照を残して、姿を隠そうとしている太陽の最後のきらめきが目にしみた。目を細めて見入ったその光景に、パリで 最後に見た道明寺の、キラキラと輝いてあたしの心に残ったあの笑顔が、頭の中に蘇ってきた。手を伸ばしても、届かない。けれど、いつでも、あたしの胸の奥で輝いてるものが、確かにある。


「大好きだよ、道明寺」


 もう一度、その言葉を口にして、暮れてゆく空の下、あたしは一人、大きく頷いた。

 大丈夫。そう確信して、歩き出そうとした途端、バシン!!と、突然、背中を叩かれた。


「なに、一人でニヤニヤしてやがるんだよ」


 その声に、心臓が鷲づかみにされたように、収縮した。


「え?」


 あたしはゆっくり、振り返り、夕暮れ空を背景に、立っている男の顔を、信じられない思いでみあげた。


「道明寺?」


 あたしの頭は一瞬、パニックになる。4年間、戻ってこれないって言っていたはずの道明寺が、日本にいる?あたしの目の前に、立っている・・・・?


「な、なんであんた日本にいるの?」

「おお、たまにはな。おまえの顔を近くでみてーじゃん」


 サラリと言ってのける道明寺に、あたしはなんだか実感が湧かなくて、その顔をただ呆然と見上げると、なんだかどこか落ち着かなげにはにかんだような顔をして、顔を逸らしながら言った。




「おまえ、独り言であんなこと言うんじゃねーよ」


 あんなこと?って・・・まさか、さっきのおまじない、聞かれていた?


「え?!や、やだ、あんた、聞いてたのっ??!」


 あたしは顔を真っ赤にして動揺した。


「なんで盗み聞きすんのよっ!恥ずかしいじゃないっ!」

「アホっ。勝手に聞こえたんだよ」


 道明寺は呆れたようにあたしを睨んだけれど、すぐに表情をゆるめた。


「嬉しかったぜ」


 その言葉にあたしの胸がドキンと大きな音をたてた。なんとなく気恥ずかしくて、その気持ちをはぐらかすように、少し強い口調で言った。


「少しは信用できるでしょっ、あたしのことも」

「ああ?・・・まあ、ちっとはな」


 言ってから、ニヤリとからかうような笑みを浮かべて、さらに言葉を付け足した。


「けど、まだまだ、だな」

「は?」

「んなこと一人で空に向かってしゃべったって、意味ねーだろ」

「・・・だって、あんた、いないんだもん」

「いるだろ。今は」


 そう言って、道明寺は何かを期待するようにあたしを見つめた。


「言いたい相手、目の前にいるだろ。言えよ」


 いたずらっ子のような、ちょっとだけ小憎たらしい顔をする、道明寺。あたしが面と向かって、そういう言葉を口にするのが苦手だって、わかってて、面白がってる。からかうようなその顔をみると、あたしの素直じゃない部分に拍車がかかる。ムカっとむくれて、絶対、言うもんか!って、ちょっと前のあたしなら思ったかな。


「なんだよ?」


 押し黙ったまま、恨めしそうに見上げるあたしを道明寺はニヤニヤとからかい混じりで見降ろしている。腹がたつけど・・・でも。でも、なんでだろう。それだけじゃない。

 あたしをからかう時までも、道明寺の目が優しくて、憎たらしいけど憎めなくい。それどころか、こみ上げてくるのは愛しい気持ち。目の前にいてくれる、手の届く場所にいるんだというその事実のほうが嬉しくて、腹を立てている気になんて、まったくなれない。そうだね、道明寺の言うとおり。

 せっかく目の前に本人がいるのに、どうして、気持ちを伝えないでいられるだろう。あたしが強張らせた顔の筋肉を少し緩めると、道明寺は怪訝そうな顔をした。大きく息を吸って、笑顔を作ってみせる。


「大好きだよ、道明寺」


 言うまでは平気だったのに、そう言ってしまったとたん、顔が急激に火照ってきた。今のあたしの顔は、この夕焼けにも負けないくらい、真っ赤になっているに決まってる。一瞬、驚いたように固まって、あたしを見つめる道明寺の視線が面映ゆい。居心地の悪さを感じて視線を逸らした瞬間、あたしの体は道明寺の腕の中に引き寄せられていた。息を吸い込むと懐かしい道明寺のコロンの香りに胸が一杯になる。幾度となく一人でつぶやいてきたおまじないが、ようやくその効力を発揮した。伺うように道明寺の顔を見上げると、その顔がほころんで、あたしと同じ、オレンジ色の空と同じ色に染まっていた。あたしの中の恥ずかしさや照れが、不思議な嬉しさに変わる。幸せそうなその顔を見ることができるなら、これからも何度だって言ってあげる。



 あたしが幸せにしたいと心から思った人。



 大好きだよ、道明寺。






おしまい

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BGM♪Rey Guerra:そのあくる日