「牧野、これこっちでいい?」
「うん?類の使いやすいほうでいいよ」




ばたばたと動き回るエプロン姿の彼女が、いつもよりもたくましく見えるのは気のせいだろうか?

苦笑しながら、「家でも仕事をしろ!」と父親から持たされたノートパソコンをテーブルの上に置いた。

「……なに?今何気に笑わなかった?」

……めずらしく鋭いね、あんた。

「べつに」

俺はくるりと牧野に背を向けたけど、背中が震えてたからばれてたかな?

「ま、いいけどさ」

そう言って、再びキッチンで食器の山と格闘しだした彼女を見届けてから
テレビのリモコンを探し、電源を入れる。

俺は荷物を運び入れてから、一番最初に作った自分のスペース────
テレビの前の、大き目のソファに深めに座った。

ガヤガヤとしたテレビから聞こえる音に気づいて、牧野が何か文句を言ってるけど
もう、疲れた……




今日は引越し。
俺は、大学の卒業を機に花沢の家をでて、牧野と暮らすことにした。
ま、花沢の家を出るっていってもほんとにただ単に家を離れるだけで
この引越し先のマンションも、父親名義のものだし今までとはあまり変わらない。


この引越しだって、家のものにやらせればいいのに
「自分で使うものは自分でやらないと!」とかなんとか言っちゃってるもんで、
部屋中足の踏み場もない状態になってる。

……はぁ、終わるのかね、コレ。

























ゴトリ、という何かが置かれた音で目が覚めた。


いい香りが、鼻腔を埋める。



「ハイ。お疲れサマ」
そういってコーヒーを手にした牧野が俺の横に腰を下ろした。
「お疲れ様って言っても類は、なにしてたのかしら?」
わざと、俺に聞こえるように呟いている。

明らかに、言葉にとげがある。
……ヤバイ。いつのまにか寝てしまった。
周りをみると、だいぶ片付いている。
……ここは素直に謝っておこう。
ここまできて一緒に暮らすのはやめる、などと言われたらたまったものではない。
一緒に暮らすことに難色を示したつくしを落とすのは、さすがの類でもかなり手こずったのだ。

「寝てました。ごめんなさい」
素直に頭を下げる。

「・・・ったく、自分のものくらい自分で片付けなさいよ、これだから金持ちって・・・・・・

ぶつぶつと文句を言っている牧野を横目で見ながら、テーブルに置かれた、
おそらく自分のために淹れてくれたであろう、コーヒーに手を伸ばした。









大学3年のときに牧野と婚約をした。
牧野は今、花沢の家でいわゆる、「花嫁修業」なるものをしている。

週に5日、英語、マナー、茶道、華道、ピアノ、ダンス、その他いろいろ。

マスコミへのお披露目は、それが終わってから。
お披露目なんてべつにどうでもいいんだけどね。
でもこれからの仕事のことを考えると、そうもいかないし。
・・・・・・めんどくさ。





「・・・・・・髪、伸びたよね」
そう言って、牧野の髪に指を通す。
窓の外はもうオレンジに染まりだしている。
窓からの光と混じりあって、彼女の髪の色は茶色に見える。

俺はごそごそと、ソファを移動して牧野の後ろに入り込む。

「ま、また、話をごまかす」
急にあたふたと、しだす彼女がかわいくて思わず後ろから抱きしめる。

コーヒーの香りとともに、牧野のシャンプーの香りが流れ込んでくる。

「『花嫁修業』のほうはどうですか?つくしさん」
俺は、予想通りの反応を示すであろう牧野の顔を見るために顔をいっそう近づける。

「も、もう〜、類ってばずるいよ。こういう時ばっか名前で呼ぶし〜」


む、そうきたか・・・・・・




普段は強い光をもつ大きな瞳を、少し潤ませながら顔を背ける。
牧野は俺が、名前で呼ばないことを気にしている。










司が牧野のことを思い出さなくて
次第に俺と一緒にいる時間が増えてきて
だんだん、俺に向けてくれる笑顔が増えてきて

この笑顔が、俺だけのためにあることがうれしくて
つい抱きしめてしまった。

そのとき、牧野の手が背中に回されて・・・・・・俺のシャツをギュっと掴んだ時
細い糸のような何かがプツンと切れてしまった俺は、そのままあいつをさらってしまった。

その時から牧野は俺のことを「類」と呼ぶ。

牧野の中で何かが変わった。
「花沢類」から「類」へとあいつの中で何かが変わったんだ。


それに対して俺は、牧野を名前で呼ばない。

俺の中ではもうとっくに
「牧野」から「つくし」へと変わっている。

でも、名前で呼ばないのは─────
照れ、もあるけど────



──────初めて名前を呼んだときの、牧野の表情が忘れられないから。



なんて理由だって知ったら、怒るかな?


初めて名前を呼んだとき、大きな瞳を、これ以上ないくらい大きく見開いて
真っ赤になって、「なに?」ってやわらかい笑顔で微笑んだ牧野の顔。

キスをした後や、体を重ねた後、はにかんだように微笑むあいつもたまらないけど
名前を呼んだときの、笑顔には敵わない。

────名前を呼ぶたびに増していく愛しさに、気が狂いそうになる。
俺が壊れないように・・・・・・
牧野を壊してしまわないように・・・・・・

少しずつ、少しずつ・・・・・・愛しい人の名前を呼ぶ。







俺は今日も牧野をいじめる。

コーヒーカップをテーブルに置くと、牧野から離れて立ち上がった。

「さぁて、あと少し片付けちゃおうか。つくし」



    



ハッ、と顔を上げた牧野と目が合うと、牧野は一気に真っ赤になる。
俺は、気づかないフリをしてテレビの電源を切る。

何も写っていないテレビの画面に、やわらかく微笑む彼女を確認してから
俺はニヤける口元を右手で隠して、キッチンに向かった。





                



                             おしまい





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