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 Air
  〜Unexpected reunion〜
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 偶然手にした週刊誌に、笑顔の道明寺の写真が載っていた。
 久しぶりに見る彼と、その下に書かれた見出しに、何故だかほっとした。



 別れの日は雨だった

 嫌いになったわけではない、好きだから別れるんだ
 だから、涙は見せたくなかった

 雨は、泣けないあたしの涙だった
 あたしが泣かないから・・・・・代わりに空が泣いてくれた














 カツ カツ カツ
 いつものように足音を響かせながら、屋上へ続く階段を上る。

 いつものように手すりにもたれ、いつものように空を仰ぐ。
 今日の空は少し重たい。
 雨が降るのかな・・・と思った。

 「牧野さん」

 不意に声をかけられ、驚いて振り返る。
 屋上の入り口に、仏頂面の係長が立っていた。
 いつもポマードの臭いをプンプンと撒き散らし、
 女子社員から『悪臭公害』と煙たがられている奴だ。

 「男から電話」

 「・・・・・はぁ・・・」

 曖昧にうなずく。

 「会社の電話、使用で使われると困るんだよね」

 そう言い捨て、公害野郎は階段を下りていく。
 しかし、男から電話とは・・・一体誰だろう、さっぱり見当がつかない。
 が、電話をかけてきた人物が、あたしを待っていることは事実だ。
 急いで階段を駆け下りた。



 
 『よう、久しぶりだな。元気か?』

 受話器から聞こえる声に、自分の耳を疑った。

 「だ・・・ど、どうしてここが・・・?」

 鯉のように口をパクパクしていたら、ニヤニヤしている係長と目が合った。
 ・・・人の電話に聞き耳を立てるなんて、本当に嫌な奴だ。

 『なんで牧野の勤め先がわかったか・・・って?そりゃ愚問だろ』

 牧野の会社、ウチの系列だからな・・・と、声の主は笑った。
 そんなこと、あたしは知らなかったのだが・・・・・

 『ところで、お前夜時間ある? ちょっと話がしたいんだけどさ・・・』

 そう言われ、ふと雑誌の記事を思い出した。

 「特に・・・ない」

 『仕事終わる頃に車を行かせるからさ、会社の前で待ってろな。
  時間ないから切るぞ。後でな』

 「あの・・・・」

 一方的に切られたライン。
 昔からそうだ。
 人の話を最後まで聞かないのは、彼らの悪い癖。
 ため息を吐いて、受話器を置いた。

 「何?彼氏からのラブ・コール?」

 相変わらずニヤニヤした係長が、いやらしい声で言った。
 今どき「ラブコール」なんて・・・彼のボキャブラリーは、10年ほど遅れているのだろうか。

 「・・・美作商事のご子息からでした」

 係長の顔色が瞬時に変わった。














 定時に会社を出ると、目の前で車が停まった。
 車のことはよくわからないが、それでも高そうなこの車が、
  美作さんのよこした迎えだと察することが出来た。
 ドアが開き、『牧野さまですね?』と運転手に聞かれる。
 うなずき、車へ乗った。









 「・・・・・・・・」

 「いつまでそんな仏頂面してんだ? 余計ブサイクになるぞ」

 「大きなお世話」


        
 そっぽを向くあたしのグラスに、美作さんは苦笑しながら紹興酒を注ぐ。
 連れてこられたのは、メープルホテル。
 フロントを横切り、案内されたのは、ホテル内の中華料理店の個室。
 幸い知っている顔には会わなかったが、ここにたどり着くまでは生きた心地がしなかった。

 「灯台下暗し・・・って言うだろ? 下手に外へ出るよりも、
  こういうところにいる方が見つからないんだよ」

 誰に・・・?と訊こうとして、気付いた。

 「まあ、記者に囲まれることはないだろうけど、カメラやマイクを持った奴等に、
  うろうろされるのは嫌だからな」

 いくつ?と訊かれ、人差し指を1本立てる。
 美作さんは、あたしの紹興酒にお砂糖をひとつ、入れてくれた。
 前菜が運ばれ、あたしたちは小さなグラスを軽く合わせる。
 緊張やら怒りやら・・・で、美作さんと久しぶりに会ったという事実を、今更思い出す。
 髪を短く切り、上等なスーツに身を包んだ彼からは、
 学生時代の『遊び人』という雰囲気はきれいに消えていた。
 この人に婚約者はいるんだろうか・・・なんて、ぼんやり考えてみる。

 「・・・電話で言ってた話なんだけど・・・」

 美作さんの声にはっとした。

 「・・・司がさ・・・」

 「滋さんと婚約したんでしょ?今朝週刊誌で読んだよ」

 「・・・そっか」

 あたしの口調が淡々としていたからか、落ち着いた表情をしていたからなのか、
 彼の顔に安堵の色が浮かぶ。
 ・・・心配してくれていたんだ・・・

 「2人に会ったら『おめでとう』って伝えてよ」

 その言葉に、美作さんは笑った。

 「・・・何?」

 「いや、もし婚約したのが類でも、牧野は平然としてられるのかな・・・なんて思って」

 「・・・どうして花沢類が出てくるの?」

 話が・・・見えない。
 首をかしげるあたしを見て、美作さんは意地悪く微笑む。



 「だって、牧野は類が好きなんだろ・・・・・?」






 







 送るよ・・・という美作さんの申し出を、夜風に当たって帰りたいからと断った。

 「・・・・・・」

 空を見上げながら歩く。
 街灯が明るくてよく見えないけれど、ひとつ、ふたつと、空には星が煌いているようだ。
 昼間の雲は消えてしまったのだろう。

 『女にとって、男って3種類あるんだぜ』

 美作さんの言葉を思い出す。
 恋人にも友達にもなれない男と、恋人にしかなれない男と、恋人にも友達にもなれる男。
 つまり、道明寺は恋人にしかなれなくて、花沢類は恋人にも友達にもなれる・・・
 そう言いたかったのか。
 なるほど・・・と思った。

 『牧野が類を「空気」に例えたとき、正直言って、おまえと司はうまくいかない・・・って思った』
 食事の最中、そう彼は言った。
 そして、それは現実となった。


 誰からの妨害もなくなり、やっと始まった『恋人』としての毎日
 それは『別れ』の始まりでしかなかった

 違う世界で生きてきた2人の間には、当然矛盾という名の穴が開く。
 『穴を埋める』という解決策にたどり着くには、あたし達はあまりに幼すぎた。
 すれ違いに気付かぬ振りをして、つじつまを合わせるのに抱き合ってみたりキスしてみたり。
 これ以上どうしようもなく、身動きが取れなくなって初めて、自分たちの過ちに気付く。
 そして、こういう場合、大抵は後戻りができない。

 この時、『好きという気持ちだけではどうにもならない』という言葉の意味を、
 身を以って理解した。












 
 恋は・・・・・あっけなく終わった

 
 『終わりにしよう』

 雨の中、アパートまで送ってくれた道明寺にそう告げた。

 『・・・わかった』

 少しの沈黙の後、道明寺は小さくうなずいた。

                                    


 部屋に戻り、あたしは泣いた。
 零れ落ちる涙を拭くこともせず、声を押し殺して泣いた。
 頭の中を走馬灯のように駆け巡るのは、楽しかった思い出ではなく、苦しかった後悔ばかり。
                                                   

 どうしてあの時、強く言い返してしまったんだろう
 どうしてあの時、彼の言葉に笑ってうなずいてあげられなかったのだろう

 『別れ』は、沈殿性の毒だ。
 時間が経つにつれ、頭は重くなり、身体は動かなくなり、感覚が麻痺してくる。
 そのくせ意識だけははっきりしていて、涙が止まらない。


 
 このまま、死んでもいい・・・・・




 本気でそう思った。



         
                     









 《Pipipipipipipipipi.....》

 携帯電話の着信音に、はっと我に返る。
 ぼんやりとしている間に、随分と歩いてきたようだ。
 アパートはもうすぐそこ。

 「はい」

 『あ、俺だけど・・・・・』

 別れたばかりの美作さんだ。
 どうして番号を・・・と訊きかけ、帰り際に教えたことを思い出す。

 「さっきはご馳走様でした」

 『いや、それはいいんだけどさ・・・・・』

 実は・・・と、言葉を続けた。

 『司の婚約の記事が雑誌に載ることが決まったとき、類から電話があったんだ。
  ・・・その記事を見たら、牧野はショックを受けるだろうから、様子を見に行って欲しい・・・って』

 「え・・・・」

 『本当は自分で行きたいけど・・・って。あいつ、今東南アジアに視察に行ってるからさ』

 「・・・そうなんだ・・・」

 あたしを包む空気が、暖かくなった。
 いないはずの花沢類が、隣で微笑んでる・・・・・そんな気がした。

 『でも、予想外に元気だったんで安心した。「心配することなかった」って、類に伝えとくよ』

 「うん」

 『それから・・・・・』

 美作さんは、一旦言葉を切る。

 『類のこと、本当はどう思ってるんだ・・・?』

 返事に詰まる。
 どう・・・・・答えたらいいんだろう。

 「・・・もうずっと会ってないし、社会に出てから4年も経ったし・・・」

 『うん』

 「その間に、色んな人に出会ったし・・・・」

 『うん』

 「・・・でもね、ふとした瞬間に思い出すの。花沢類の笑顔。
  好きとか、嫌いとか・・・考えたことないんだけど、どうしてか、思い出しちゃうんだよね・・・」

 『うん・・・』

 暫く黙っていた美作さんは、不意に意地悪な声で

 『牧野がお前のこと好きって言ってたぞ・・・って、類に伝えてやるよ』

 と言った。

 「それははしょりすぎだよ・・・」

 笑ってそう答えた。












 電話を切り、もう一度空を見上げた。
 あの人も、同じ空を遠い異国の地で見ているのだろうか。






 『自分が辛いときに、どうしてあんたは無理に笑うの?』

 道明寺と別れたことで、皆に心配をかけまいと、体に鞭打って『元気』を装っている時だった。
 いつもの非常階段で、花沢類は、あたしの目を見つめ、静かにそう言った。
 ビー玉のような透き通った瞳は、心の中を全て見透かしているようで、きまり悪くて視線を逸らす。

 『辛いなら、そう言えばいい。一人で立ってるのが辛いなら、誰かに頼ればいい』

 そう言って、あたしの肩に手を置いた。

 彼の言葉は、壊れかけていたあたしの心に優しく響いた。
 バランスを取ることが出来なくなっていた身体を、優しく支えてくれた。

 気付いた時には、あたしは花沢類の胸に顔をうずめ、声を出して泣いていた。
 枯れてしまったはずの涙は、尽きることなく流れ落ちる。
 
 あたしの髪をなでるその手は、まるで解毒剤のようだった。
 身体に蓄積された毒が、涙と共に身体の外へ流れ出る。
 そんな・・・・・気がした。






 1週間、1ヵ月、1年・・・・・
 2年、3年、4年・・・・・

 流れ行く時間の中で、思い出は日々薄れていく。
 身を切るような別れの痛みも、今ではほとんど感じることもない。

 それでも
 流れ行く時間の中で、日々鮮やかになる思いがあることも、あたしは知っている。
 あの時、彼の言葉が、手が、優しさがなかったら
 きっと別れの痛みから抜け出すことはできなかった。
 こんな穏やかな気持ちで『来るべき日』を迎えることは出来なかった。




 逢いたいわけではない
 好き・・・・・というわけではない

 ・・・ううん、それは違う

 本当は、あの笑顔を見たい
 声が聞きたい
 手に・・・・・触れたい


 いつの間にか、こんなにも『彼』を渇望している自分に驚く。
 そして、また人を好きになれた自分を・・・とても嬉しく思う。










 滋さんからの手紙が、アパートに届いていた。
 婚約パーティーの招待状だった。

 《つくしには、是非出席して欲しいです》

 滋さんの字で、そう付け加えてあった。
 鞄の中からペンを取り出し、「出席」に大きく丸をつける。

 《2人の晴れ姿、楽しみにしています》

 そう書き足した。

 当日は、めいっぱいお洒落して出かけよう。
 心からの笑顔で、2人に《おめでとう》を言おう。
 滋さんは、道明寺は、どんな表情をするのか・・・・・今から楽しみだ。
















 カツ カツ カツ
 いつものように足音を響かせながら、屋上へ続く階段を上る。

 いつものように手すりにもたれ、いつものように空を仰ぐ。
 雲ひとつない快晴。
 こんな日は、パーティー日和・・・というのだろうか?・・・なんだろうか。

 「ま、牧野さん・・・・・」

 不意に声をかけられ、あたしは驚いて振り返る。
 屋上の入り口に『公害』係長が、泣きそうな顔で立っていた。
 
 「で、電話だよ・・・美作物産のご子息から・・・・」

 その声は本当に泣き出しそうなそれで、あたしは笑ってしまいそうだった。

 「今行きます」
 
 階段を駆け下り、急いで自分の机に戻る。
 
 「牧野です。お待たせしました」

 いつもの調子で、受話器の向こうの美作さんが言った。

 『この前はサンキューな。ところで、お前今日パーティー出るのか?』

 脂汗を流した係長と目が合う。
 ・・・どこまで卑しい奴なんだろう・・・

 「行くよ。2人を冷やかさなきゃだもん」

 『じゃあさ、仕事終わる頃に迎えをやらすよ。それで会場まで来いよ。 
  お前のドレス、用意しといてやるからさ』

 「ドレスくらい自分で・・・」

 『時間がないから切るな。じゃあ後で・・・』

 一方的に切られたライン。
 ・・・相変わらずなんだから・・・
 小さくため息を吐き、受話器を置いた。

 「牧野さん、今の電話・・・・」

 相変わらず脂汗を流しながら、係長が言う。
 ・・・どうしてこの人は、人の電話がこんなにも気になるんだろう・・・

 「今日、道明寺と大河原の婚約披露パーティーに招待されているんです」

 係長が、泡を吹いてひっくり返った。









 仕事を終え、ロッカーで着替える。
 今日の美作さん、声がなんだか変だった。
 きっと、良からぬ事を企んでいるのだろう・・・
 でも、それも楽しいかもしれない、高校生に戻ったみたいで。



 会社を出ると、目の前で車が停まる。
 この前のとは違うが、一目でわかる高級車は、きっと彼のよこしたものだろう。

 しかし

 ドアが開いて、思わず息を呑んだ。
 車から降り立った人。



 「・・・久しぶり」



 そう言って、あたしの手を取った。
 子供っぽさが抜けて、大人の顔になっても、彼のもつ独特の雰囲気は変わらない。
 ビー玉の瞳で、ふわりと微笑む。

 「・・・あきらに言われて、迎えに来た」

 ああ・・・
 美作さんの声の原因がわかった。
 ホント、余計なことしてくれて・・・・・

 でも、嬉しいから、今回だけは特別に許してあげよう。

 驚きと喜びの入り混じった、少しかすれた声であたしはその名前を呼んだ。


 




              もう一度だけ、大好きなこの『空気』に包まれてみよう・・・・・




 〜fin〜
 



つづき・・・AIR 第3楽章へ




                          

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ピアノソナタ 第二楽章「悲愴
亜麻色の髪の乙女
悲愴 2楽章.
まれに・・・