夕方五時半。
 帰宅ラッシュの地下鉄。
 少し肘が当たったと、立ちながら新聞を読むサラリーマンを睨みつけるOL。
 音楽を聴く学生のヘッドホンからこぼれる軽快なリズム―――彼らにとっては・・・だが―――に
 思い切りうんざりした表情を浮かべる買い物帰りの主婦。
 毎日繰り広げられる光景が、少しだけ俺を憂鬱にさせる。

 ・・・しかし、目的地はたった3駅先、時間にすれば約5分。
 それだけが、通勤地獄のたった一つの救いだ。

 こんなことに文句を言う俺に、友人たちは声をそろえて『我侭』だと言う。
 そして、自分でもそう思う。


 

            








 隣に立つサラリーマンのオヤジ臭に辟易しながら、車内の広告へと視線を移す。
 あちこちに貼られたそれらの中のひとつ、経済雑誌の広告に、馴染のある名前を見つけた。


 『道明寺・大河原 2大企業提携の裏側 策略婚姻による事業拡大に、他企業はどう対抗するのか?』

 
 ・・・へぇ・・・あいつ結婚するんだ
 ・・・彼女じゃない、他の女と・・・・・













 ―――――あんな女は初めてだった―――――


 地下鉄のホームに降り立ち、ほっと安堵の息を吐く。
 毎日のことだが、電車から降りるだけでも一苦労だ・・・
 俺たち・・・この駅に降りる人間のために、一度電車から降ろされたサラリーマンが、既に見えない電車を、
 恨めしそうに目で追う。
 ・・・・・乗り遅れたのか・・・・・
 とろい奴・・・と、鼻で笑いながらエスカレータを昇る。
 地上に上がれば既に陽は沈み、紫色の、幻想的な空が広がる。


 
 ―――――平凡な、目立たない背格好で―――――


 学校帰り―――どこかで寄り道をしていたのだろう―――の小学生が、ぶつかりそうな勢いで脇を走り抜けていく。

 塾へ向かう中学生、初々しい高校生のカップル。
 まるで人生の過程を垣間見るような順番で、不思議な感覚に陥る。



 ―――――そのくせ目だけ妙に印象的で―――――


 空に闇がかかった瞬間、ちょうど良いタイミングで街灯が灯される。
 子供から大人へ、世界の中心が交代。
 周りの空気が、少しだけ色づいた感じがした。



 ―――――こんな女、普段なら絶対に相手にしないのに―――――


 信号の色が変わる。
 目的地は横断歩道の向こう側。
 ジーンズのポケットに手を入れ、周りを見ながら青になるのを待つ。
 信号の待ち時間は嫌いだ。
 長いくせに、することがない。
 一番手持ち無沙汰な時間。


 その時


 向かい側の信号待ちの人ごみに、懐かしい姿を見つけた。

 平凡な目立たない背格好で
 そのくせ目だけは印象深い
 絶対相手にしない・・・はずだったタイプの女

 髪を伸ばして
 グレーのスーツに身を包んで
 顔の表情までは見えないけれど、それでも沈んだ雰囲気は伺えない



 何もかもを失う覚悟をして、好きな男の元へ走った女
 自分の世界を捨てて、未知の世界へ足を踏み入れた女



 


 意志の強い眼差し
 はっきりとした口調
 そして
 迷いのない笑顔



 それが
 俺が見た最後の姿


 







 PI PI PI・・・・・

 信号機の機械音に、はっと我に返る。
 人の波に逆らわないよう、急いで歩き始める。

 それでも彼女からは目を話せなくて 
 話し掛けるべきなのか、そっとしておくべきなのか
 答えは出ないまま、彼女との距離は少しずつ近づいていく

 『久しぶりだな』

 『こんな所で何してんだよ?』

 どうやって声をかけようか、笑うべきなのか、驚くべきなのか
 ものすごいスピードで考え抜いた結果







 「・・・・・・・・・・」








 すれ違う瞬間、声をかけないことを決めた。









 ふと脳裏に浮かぶ、地下鉄内の記事。
 そのニュースが、彼女の耳に入っていないはずがない。

 傷ついているかもしれない
 悲しんでいるかもしれない

 もし彼女に何かすることができるのなら
 もし俺にその気があるのなら

 できることはただひとつ

 あいつを、思い出させないこと・・・・・








 



 横断歩道を渡りきり、後ろを振り返る。
 彼女の姿は既に人ごみにまぎれ、どこにいるのかもうわからない。
 


 『風化できない想いなんてあるのか?』


 
 俺がした最初で最後の質問、あの女は覚えてるだろうか
 
 『風化しない想いはない』

 なんて言ってみたけど、まんざらそうでもないらしい。
 
 この気持ちが何なのか、よくわからない
 恋と呼べるのか、それとも、ただの思い出なのか

 でも、あの視線も声も態度も
 あの時のまま、今も変わらず俺の中にあって
 それを嬉しいと、忘れたくないと願う自分がいる
 忘れたくない・・・・・と










 もう一度、空を見上げた。
 広く続く空。
 東は紺色、西は赤色。
 吸い込まれてしまいそうなほどの鮮やかなグラデーション。
 時計を見れば、もう少しで6時になるところだ。
 遅刻しないよう・・・と、再び歩き始める。


 彼女が苦しんでいませんように・・・と祈りながら

 


                 



 

                                     fin

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