「ふぅ、終わったぁ」
書類の束を整えて深呼吸をする。
終業時間直前に頼まれた仕事を引き受けてしまったばかりに、仕事を終えるのがいつもよりも遅くなってしまった。
色白で華奢な肢体、背中の中ごろまである艶やかな黒髪、人を惹きつけずにはおかない意思の強そうな大きな瞳。
牧野つくし、21歳。
英徳外の短大に進学したつくしは、大学を卒業して就職をして2年目になっていた。
テキパキと仕事をこなすさまは、もうすっかりベテランのキャリアウーマンの雰囲気を醸し出している。
今日の夕食は何にしようかな…と考えながら机の上を片づけ始めたつくしに、
「牧野さん、今日これからヒマ?ヒマなら飲みに行かない?」
と、隣の席の男性が声をかけてきた。
「あ、えーと…ごめんなさい。今日ちょっと約束があって…。あっお湯呑み片付けてきますね」
当たり障りのない言葉でかわし、空になっている湯呑みを持って給湯室へと逃げ込む。
―― 別に嫌なわけじゃないんだけどね。
その男性には何度か誘われているが、その都度適当な理由をつけて断っているので、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
―― でも、あたしは…
ふと、目の前の壁に飾ってある鏡に映る自分に気づく。
胸元に揺れるのは土星をかたどったネックレス。以前司からもらったものだ。
司がNYに行ってしまってから、つくしはこの土星のネックレスをいつも肌身離さずつけていた。
少しでも司を身近に感じられるように。司に会えなくて挫けてしまいそうになる自分を励ますために。
司に会えないのに、司を待っているのに、他の男性と出かけたりするのはつくしには考えられなかった。
『4年後に迎えに行きます』
メディアの前でそう言いきった司。
確かなものはその口約束だけ。
不安がないと言ったら嘘になる。
―― 不安?ううん、そんなことない。
自分に言い聞かせ、ネックレスをそっと握る。
きっと司は迎えに来てくれる。つくしはそう信じていた。
―― ねえ、あれから何年――?
「お先に失礼します」
残っている人に声をかけてオフィスを出る。
エレベーターで1階に下り、涼しいビル内から外に出ると途端に熱せられたアスファルトから立ち上る熱気が押し寄せた。
いつもよりも終わるのが遅くなったために付近の会社が終わる時間と重なってしまったらしく、周りに建つビルから続々と人が吐き出されてくる。
つくしは器用に人波をよけながらいつもの帰り道を辿ろうとして当然のように混雑が予想される電車に乗るのが突然嫌になり、ハタと立ち止まる
終業が遅くなったとはいえ、夏至に近いこの時期はまだ日没には間がある。
―― 久しぶりに公園でも散歩して時間をつぶそうかな。
そう思い立ちくるりと方向転換をして歩き出す。
―― ちょっと暑いけど、もう夕方だし涼しくなってくるよね…
そんなことを考えながら歩いていると、ふと視線を感じた。
歩く足はそのままに、視線の主へと顔を向ける。
そこにいたのは・・・・司。
ブランドもののスーツをさりげなく着こなし、4年前よりも数段大人びた雰囲気を持っている。けれど、癖の強い髪型は変わっていない。
つくしは思わずそこに立ち尽くしてしまう。
雑踏の中にいるのに周りの音が何も聞こえなくなり、人を射止めるような司の視線に縛られたように身動きが取れなくなる。
―― 道明寺?まさか、そんな。さっき考えてたから?でも…え!?
つくしの頭の中はパニック状態になり、心臓はドキン・ドキンと大きく鼓動を打つ。
司は、何も言わずただつくしを見つめている。
4年前と変わらない、つくしだけに見せる優しい目をして。
「ど…みょう、じ?」
つくしの唇から呼び慣れた、けれど久しく口には出していなかった名前が紡ぎだされる。
ゆっくりとつくしに近づいて目の前まで来た司を見上げ、
「ほんと…に?本物?」
と聞く。
その言葉に司は
「自分で確かめろよ」
と、つくしの両手を持ち上げ自分の頬を挟むようにつくしの手を当てた。
握られた手の温もりと、当てられた頬の温もり。懐かしくて嬉しくて、司の頬を挟んだ指先に意識が集中する。
「ホンモノ、だろ?…あれから4年経ったんだぜ」
司はつくしの瞳を覗き込むようにして言う。
―― それって…帰ってきたって、こと?
声には出さず問い掛けるつくしの瞳に涙が浮かんでくる。
零れ落ちた涙をその細く長い指ですくい取り、司はゆっくりと言った。
「ただいま」
つくしはたまらず司の腕の中に飛び込んだ。
「おかえり!」
司はつくしの体を壊れ物でも扱うようにそっと抱きしめる。
耳に心地よく響く低めの声。
4年ぶりに抱きしめられた腕の感触。
よく馴染んでいるけれど懐かしいコロンの香り。
―― ああ、本物の道明寺だ。本当に帰ってきたんだ。
4年間会いたくて会いたくて、でも会えなかった。
ずっと抱きしめてほしかった。
司の腕に包まれて、司が帰ってきたという喜びがつくしの胸に確かな実感として湧き上がってくる。
何故か涙が止まらない。
―― あたし変だ。どうしてこんなに泣けるんだろう。嬉し涙っていうのかな…
しばらくそのまま抱き合っていた二人だが、ぴこっ ぴこっ という視覚障害者用の歩行者信号音でつくしはふと我に返る。
今自分がいるその場所が街のど真ん中だったということに気づき、つくしは慌てて涙を拭いて体を放そうとする。
「ねぇ道明寺放して。街のど真ん中だよ。これじゃただのバカップルじゃん」
しかし司はますますつくしを強く抱きしめて放してくれない。
「バカップル上等って言っただろ。お前のその泣き顔他の奴らになんか見せっかよ、もったいねぇ。お前が泣いていいのは俺の前でだけだ」
「何よソレ?相変わらず傲慢なんだから」
呆れたように言いながらも、以前と変わらない司のストレートな愛情表現が嬉しくて、つい微笑んでしまう。
「ゴーマンってなんだ?饅頭の種類か?」
「……。あんたNYに行ってますます日本語が不自由になったんじゃないの?」
あまりにも相変わらずの司のボケっぷりにつくしは脱力する。
自分に都合の悪いことは聞こえないらしい司は、
「さて、じゃ行くか」
と言ってひょいとつくしを抱き上げた。
「うわ、何すんのっ。自分で歩くから下ろしてよ」
つくしが顔を赤くして抗議をしても司はお構いなしだ。
「下ろさねぇよ。4年ぶりにやっと会えたんだぜ」
「ど…どこへ行くの?」
恐る恐る聞いたつくしに
「久しぶりの再開を祝して…行くとこは決まってんだろ」
司はニヤリと笑って意味深に答えた。
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