星に願いを            作 ポン・マスカーワ




昔々のお話。
ある街の小高い丘の上に、領主様のお屋敷がありました。
領主様には、それはそれは可愛らしい娘が1人、いました。
雪のように白い肌と、絹糸のように細く美しい髪、そして、血のように赤い唇。
パッチリと大きな目に、小ぶりで高い鼻、両端が少しだけ上がった、可愛らしい口。
すらっと長い手足に、形の良い小さな爪。
領主様は、娘が大切で仕方ありません。
何でも買い与え、娘の望むことはすべて叶えてやりました。
でも、娘は幸せではありませんでした。
体が弱く、外で遊ぶことは愚か、部屋から出ることすらできなかったからです。


ある日、娘は恋をしました。
外へ出られない、人と出会えないのだから、恋などできるはずがないと思うでしょう?
でも、娘は恋をしたのです。
夜空に浮かぶ、お月様に。

『わたしは夜が大好きよ。だって、いつでもあなたに会うことができるから』

皆が寝静まった夜更け。
娘はそっと窓を開け、小さな声で呟きました。
お月様は答えてはくれないけれど、娘は幸せでした。
優しい光で自分を照らしてくれるからです。





ところが、困ったことが起きました。
日に日にお月様がやせていくのです。
まん丸だったお月様は、もうブーメランほどの細さしかありません。

『どうしてそんな風に消えてしまうの?わたしのことが嫌いなの?
 もしあなたがそのまま消えてしまったら、わたしはきっと悲しくて死んでしまうわ』

娘は毎日祈りました。
神様どうか、お月様を消さないでください。
わたしの大好きなお月様を、前みたいにまん丸に戻してください・・・と。

娘の祈りは空へ届きませんでした。
いつものように窓を開け、夜空を見上げても、優しい光は降り注ぎません。
悲しくて悲しくて、涙が次々に零れ落ちます。
胸がちくちくと痛んで、頭の奥がガンガンします。
このまま死んでしまうのかしら・・・と、思いながら、娘は窓に手をかけました。
すると。

『僕を見て。僕等を見て。空から君を照らすのは、大きな月だけじゃないんだよ』

誰かの声がしたような気がして、娘はふと顔を上げました。
するとどうでしょう。

キラキラ キラキラ

満天の星空が広がっているではありませんか。
煌きながら、時には流れながら、星たちは娘に合図を送ります。

『悲しまないで。僕らもいつも、君を見ているんだから・・・』

儚くて小さな光は、懸命に娘を照らそうとします。
もう、悲しくありませんでした。
だって、空にはお星様もいるって気付けたんですから。
お月様が消えてしまっても、独りぼっちじゃないって気付けたんですから・・・・・











「・・・はぁ」

 なんだか全然集中できなくて、ため息をつきながらシャープペンシルを置く。きっと、この暑さが原因なんだろう・・・なんて自分の中で言い訳しながら、朝作った麦茶を冷蔵庫から出し、コップに移さず、容器に直に口をつけて一気飲み。わざわざグラスに移し替えると、グラスを取りに行くという余計な動作をしなければならない上に、洗い物が増えるだけだから、こうして直に口を付けるのは、とても経済的で効果的な飲み方だと思うのだけれど、これを亜門に見つかると、すごく怒られる。『少しは女らしくしろよ』と。亜門はあたしに対して『女』を感じていないんだから、らしいとからしくないとか関係ないと思うんだけど・・・と、この間反論した。そうしたら。

『あいつの前でも、そんな男らしいことできるのか?』

 と呆れられた。男らしい・・・という言い方も気になるけれど、確かに女らしい仕草ではないから、反論もできない。それよりも気になったのは、あいつという言葉。一体、亜門は誰をさして『あいつ』と言ったのだろう。少し考えて、そして気付いた。どうしてあたしは考えているのだろう。少し前までは、『あいつ』と言ったらあいつのことでしかなかったのに。

 亜門は大人だ。大人だから、こういうことに聡い。

『・・・お前、ほかに気になるやつでもできたのか?』

 少し意外そうに、少し嬉しそうにあたしの顔を覗き込む。けれど、なんとなく恥ずかしくて、何故か後ろめたくて、あたしは亜門と視線を合わせられないでいた。

『・・・そんなのいないよ』

 ごまかそうとして、吹けない口笛を吹くマネをする。忙しなく視線を動かして、意味もなく、テーブルの上を片付けて。ここまで挙動不審になっていたら、肯定しているのと同じかもしれない、と思った。


 壁時計は9時をさしている。今日は土曜日で、亜門と一緒に早い夕食を取った。教科書に向かったのが6時頃だったから、もう3時間もこうして座っていたことになる。時間が経つのは早いよな・・・なんてぼんやりと考えながら、うちわでパタパタと顔を仰ぐ。火照った顔にぬるい風が・・・気持ち悪い。窓は全開にしてあるけれど、生ぬるい風が時折吹き込むだけ。一応、初期設備でエアコンがついているのだけれど、電気代のことを考えると、もったいなくて使えない。うちわと扇風機で十分だと、自分をだましながらの毎日。でも、気付いてしまった。暑いものは暑いのだ。

 部屋が冷えたらすぐに切ろう・・・と自分に言い聞かせ、エアコンのスイッチを入れる。9月も半ばだというのに、どうしてこんなに暑いんだろう。東京も確かに暑かったけれど、ここまでではなかったと思う。

 冷たい風が直に当たる場所を探しながら、ケータイをいじる。さっきショコから送られてきたメールに、まだ返事をしていなかった。といっても、『昨日田村くんが野菜ミックスジュースを飲んでいた』という、他愛のない内容なんだけれど。ショコいわく、甘いものを苦手とする彼が、そんなジュースを飲むことが珍しいそうだ。些細なことで一喜一憂して、こうしてメールをくれるショコを、本当に可愛いと思う。田村くんのことが、好きで好きでたまらないというのが、ひしひしと伝わってくるから。残念ながら、あたしにそういう経験はない。

 しばらく考えた末、『野菜不足だったのかな。それにしても珍しい場面を目撃したんだね』と返事をする。送信ボタンを押して、完了画面を確認。一度ケータイを床の上に投げ出したけれど。勉強する気もないし、かといってほかにすることもない。手持ち無沙汰にぼんやりしているのもつまらないので、再びケータイを手にして、今まで届いたメールを読み返してみる。大半はショコとユカから。時々、東京にいる進から。そして、珍しい送信者のメールを発見した。

『まだ起きてる?星、綺麗だよ』

 窓を開けて空を見上げる。クーラーがついているときに窓を開けるなんて不経済な行為、普段のあたしでは絶対に考えられないことだけれど、今日だけは特別・・・ということにしておこう。草野くんからのメールを見たら、どうしても空を見たくなってしまった。どうしてなんだろう。理由が見つけられないその行為は、人を好きになる気持ちと少しだけ似ている。

 亜門の言ったことは、正しいけれど間違っている。あたしには、最初から好きな人なんていない。いるのは、どうにかして忘れたい人だけ。悲しくて忌々しいあの事件。福岡に来てからも、何度も同じ夢を見た。血の涙を流しながら、『お前なんか知らない』と何度も呟く道明寺。その声は悲痛で苦しくて。彼の姿を目にすることも、彼の声を耳にすることも耐えられなくなると、必ず目を覚ます。呼吸は乱れて脂汗をかいて。そして、1人でいることが怖くて、声を殺して泣いた。自分で作り上げた亡霊に囚われていることは重々承知だ。忘れたいといいながら、実は忘れたくないのかもしれないということもわかっている。でも、道明寺をずっと想い続けることなんて不可能だから。思い続けても、未来はない。思い続けたら、幸せになれない。それなら、この気持ちを忘れてしまいたい。道明寺を忘れてしまいたい。東京を、忘れてしまいたい。


 しばらく空を見つめる。でも、目に入るのは街灯の灯りばかり。星の光が届かないのか、それとも曇っているのか。無性にそれが気になって、あたしは散歩に出かけることにした。気分転換にもなるし、空の様子も把握できる。


 クーラーを消し、窓を閉め、キャミソールとジーンズに着替える。ミュールをつっかけて、きちんと戸締り。どこまでも明るい空を見上げながら、ゆっくりと歩き出す。

「・・・Don’t forget. There are many stars in the sky. And they always watch you・・・」

 昔、まだパパが普通に仕事をしていた頃。クリスマスに絵本を買ってもらったことがある。『星に願いを』というタイトルだった。ディズニーとはまったく関係のない洋書だったけれど、あたしはその本が大好きだった。話の最後に歌が載っていて、おもちゃのピアノで音符を拾いながら、幼いあたしは一生懸命歌ったっ。もちろん、英語なんて読めるはずがないけれど、さすが児童書、きちんとカタカナで英語の読み方が書いてあって。ママがそれを読んで、あたしに聞かせてくれた。一部分だけだけれど、あたしは今でも歌うことができる。『忘れないで。空にはたくさんの星があって、いつでもあなたを見守っているということ』そんな意味だった。

 この話を思い出すといつも、草野くんは星のような人だ・・・と思う。月があるときは目立たない、その存在に気付けない。でも、月が姿を消したとき、自分を照らしてくれるその存在に気付き、感謝したくなる。

 どれくらい歩いたんだろう。あまりにぼんやりしすぎて、自分のいる位置が把握できない。この半年であたりの地理はだいぶ覚えたつもりだったけれど、今は夜、しかも細い路地に入り込んでしまったら、もうわからない。道順を覚えていないのだから引き返すことは不可能で。それなら、進むしかない。大通りに出れば、道もわかるだろうから。でも、そんな必要もなかった。この道に見覚えがある。たった1度しか通ったことはないけれど、間違ってはいないはずだ。少し先の自動販売機。販売機の向こうの交差点を曲がれば、草野くんの家だ。

 彼の家が近いとわかった瞬間、無性に草野くんに会いたくなった。なぜだろう・・・理由は、わからない。きっと、空を見たくなったときと同じ。理由なんてない。会いたいから、会いたいんだ。



 思ったよりも近かった彼の家は、1階も2階も光に溢れていた。彼の部屋はどこなんだろう・・・なんて考えながら立ち止まる。会いたいとは思ったけれど、玄関のチャイムを押すほどの勇気はなくて。勉強してるのかな、音楽聴いてるのかな、ギターいじってるのかな、それとも、もう眠ってしまったのかな・・・いろいろ考えてみた。難問を考えるときの険しい表情も、音楽と接しているときの楽しそうな表情も容易に想像できる。そんなことに、少しだけ驚いた。それほどに、あたしは彼を意識してみていたという証拠だから。

 会いたいけれど、電話をする勇気もメールを送る勇気もない。眠っていたらどうしようとか、迷惑がられたらどうしようとか、マイナスなことばかり考えてしまって。福岡に来てからのあたしの悪い癖だ。ポジティブに考えられない。東京にいた頃のあたしは、もう少し前向きで、もう少し度胸と行動力があって、『いきあたりばったりが』得意だったのに。どうすることもできないのに、このままここに立っているわけにもいかないから。彼の家に来れただけでも良かった。もう、帰ろう。そう思ってくるりと向きを変えた時。


「お前うるさいよっ!人のこと心配する前に自分を何とかしろっつーのっ!」


 突然、男の子のわずらわしそうな声がして、家の中から光が漏れた。驚いて振り返ると、そこには、今あたしが会いたいと思っていた人が。彼は玄関のドアノブを持ったまま、顔だけ家の中に向けて何か言っているから、あたしには気付いていないけれど。Tシャツを着て、緩めのジーンズをはいて、足元はビーチサンダルで。学校で見かける草野くんとは全然違う。お風呂上りなのかな、髪がぬれているのがわかる。いつもより少しだけ大人っぽく見えて、ドキドキした。


「とにかく、マリの散歩行ってくる!!」


 乱暴にドアを閉めると、彼は玄関横の犬小屋を覗き込み、マリの首輪を散歩用リードに繋ぎ替えた。・・・ということは、マリを連れてこっちへ来るわけで。こんな時間にこんな場所で、偶然会う・・・というのはあまりにも不自然だ。姿を見れただで収穫だ。このままこっそりと帰ろう・・・と、そっとその場を離れようと思ったけれど。


「・・・ワンワンワンワン!」


 突然の犬の叫び声に、あたしは思わず小さく叫んだ。肩をびくつかせて振り返って。・・・1人と1匹とご対面。一度室見川の川原で会ったことのあるマリは、あたしのことを覚えていたらしい。尻尾を千切れんばかりに振って、草野くんがリードをしっかりと持っていなければ、きっと今頃体当たりされていた。そして当の本人は、言葉をなくして、大きな目をさらに真ん丸くして、驚いた表情であたしを見ていた。


「・・・き、奇遇だね・・・」


 背中につめたい汗を感じながら、軽く片手を挙げて挨拶。いや、これじゃ挨拶も何もあったものじゃないのだけれど。


「・・・牧野サン・・・だよね?どうしたの?こんな時間にこんな場所にいるなんて・・・」


 聞かれて当然の質問。まさか、本人を目の前に『あなたに会いたかった』と言えるはずもなく。どういう言い訳をすればいいのだろうかと、混乱気味の頭で必死に考えた。


「え・・・あの、散歩、そう、散歩してたの。で、ぼんやりしてたらいつの間にか入り組んだ道に入り込んじゃって・・・大通りに出れば何とかなると思ってたら、見覚えのある景色で、ああ、草野くんの家の近くだって・・・」


 頭に浮かぶままに口に出して、後悔した。草野くんの家の近くだってわかったからここまで来たということに対し、彼はどう思うだろう。少なくともあたしなら、会いにきたのかな・・・なんて、思わなくも・・・ない。けれど、彼はあくまでも言葉を言葉通りに受け止める人で。


「そっか、ウチ寄れば道わかるしね。ってか、俺が送ってけるし。牧野サンここまで歩きで来たの?マリの散歩のついででよければ、家まで送るから。さすがに、こんな時間に女の子一人ってのは危険だからね」


 あたしがいつも『いいなぁ・・・』と思う笑顔でそう言った。裏をかかれなかったことに心底ほっとしながら、それでいて少しだけ物足りなさを覚える。あいつは、いつも自意識過剰の勘違いばかりしていたから。


「じゃあ、お言葉に甘えます」

「どうぞどうぞ」


 目を見合わせて、2人で笑った。














 他愛のないことを言い合いながら歩く夜道。崎山先生に意地悪されたとか、亜門にバカにされたとか、『田村君情報を流せ!』と、ショコから脅しのメールが入ったとか。ひとつひとつ、丁寧に説明してくれる草野くんの話を、あたしは頷きながら聞く。彼ばかりが話しているけれど、それは全然苦痛じゃなく、むしろ心地よい。時々たどたどしくなったりもするのだけれど、それが逆に彼らしくて、あたしはとても良いと思う。

 道明寺と付き合っていた頃はどうだろう。あたしたちは、どちらがたくさん話していただろう。それほど昔のことじゃないのに、もう思い出せない。それとも、そんなに多くのことを話し合わなかったのだろうか。記憶を反芻してみても、あたしは道明寺の話を、今みたいに意識しながら聞いたことがない。

 あの恋は何もかもが普通じゃなかったから。今思えば、あたしはあの恋を守るために、多くのことを犠牲にした。人並みのデートも会話も。彼氏ができたら、手を繋いで歩くことが夢だった。夜、時間を気にしながら、ケータイで電話したり、学校帰りに街でウィンドウショッピングをしたり、お互いの家に遊びに行ったり。でも、現実は全然違った。会えるのは夜だけ。誰にも見つからないように、タクシーを使って来る道明寺を、あたしは静かに部屋で待っていた。それでもまともに会えたことなんてほとんどなくて。道明寺はあたしを大事にしてくれた。でも、それはあたしが望む形ではなかった。


「・・・サン、牧野サン?」

「・・・・あ、え?」


 肩を叩かれて、不意に我に返る。草野くんを見上げると、少し苦笑しながら、『ぼんやりしすぎ』と怒られた。


「車道側は危ないから、場所、変わろうよ」


 促されるままに場所を入れ替わる。今彼が歩いているのは、車の通りの激しい、車道側の道。そして、半歩後ろを歩くあたし。そこから見える彼の背中は、想像していたよりもずっと大きく、ずっとたくましかった。


「俺、昔両親に絵本買ってもらったことがあってさ・・・」


 突然話を変えてごめんね・・・と前置きをしてから、草野くんは話し始めた。頭を軽く振って、頭をすっきりさせる。


「タイトルが『星に願いを』っていってさ。ディズニーとはまったく関係ないんだけどね」

「・・・うん」

「その本読んで、俺すっげーショック受けたの。その頃、月って夜になると必ず見えるものだと思ってたんだよね。しかも、夜と満月はセットでさ。夜には必ず満月が浮かんでるって思ってたの。時々見かける三日月は全部ニセモノで、俺らが本物を見抜く力を育てるために、神様が余分なものを月に置いたなんて」

「・・・うん」

「でさ、本に書いてあることは絶対嘘だ!と思って、空見たの。そしたらたまたま新月の日でさ、三日月どころか、もう月がないんだよね。で、俺それがすげー悲しくてさ、上向きながらワンワン泣いたの。その後のこと、自分じゃ覚えてないんだけど、後から母さんに聞いたらどうも熱出しちゃったらしくて」

「熱?」

「そ。こういうのも知恵熱って言うのかな・・・うなされながら『月がなくなった・・・』ってずっと泣いてたらしくて、母さんたち笑いを堪えるのに必死だったって言ってた。ひどい親だよね。息子が苦しんでるのに、笑ってるなんて」


 知らない本の話されても、わかんないよね・・・と笑う草野くんに、あたしは小さく頭を振った。大通りに近づいているのか、空が少しずつ明るくなっていくのがわかる。しまった。あたしは星を見るために散歩に出たというのに。これじゃ本末転倒だ。


「あたしも、小さいときその本好きだったの。あたし小さなときから結構現実主義で、『月がどんどん小さくなってくのなんて当たり前じゃん』って、主人公のことバカにしてた」

「・・・マジで?じゃあ、俺も牧野サンにバカにされちゃうじゃん」


 ひどいな・・・と頬を膨らませながらも、草野くんは楽しそうに笑う。だから、あたしもつられて笑った。


「でもね、月が消えてから、星が出てくるシーンあるでしょ?どうしてなのかわからないけれど、そこですごく感動しちゃったの。夜寝るときに1人で読みながら、胸がいっぱいになっちゃって、涙が出てきちゃってさ・・・でも、小さいときって『感動』って感情、いまいち理解できてなくて、突然そんな風になったから、病気になったんじゃないかって思って、急に不安になって、泣きながらママ・・・お母さんに抱きついた」

「・・・うん」

「お母さんも突然のことでうろたえちゃってさ・・・」

「そりゃ、そうだろうね・・・たぶん俺でもうろたえる」

「ってか、草野くんだったらきっとすごいことになるよ。なんか、想像できる。うろたえて挙動不審になって、腕ぶんぶん振っちゃったりして、壁とがドアとかにぶつけて痛がってるの」

「・・・それって、ちょっとひどくない?」


 やっぱり頬を膨らませて。怒った顔見せる彼が、とても可愛いと思った。そして、こういうことにもあたしは憧れていたんだなぁ・・・と、今更ながらに理解した。道明寺は、こんな子供っぽい顔あたしに見せてくれなかったから。いつも一段高いところにいて、いい意味でも悪い意味でも、あたしを上から見ていた。時にはそれが心地よくて、時にはそれが不快で不満で。同じ位置で歩いていくことは、心地よいけれど・・・少しくすぐったい。






「到着」

「・・・うん」

 楽しかった時間はすぐに終わってしまう。気付けばもう、アパートの前。マリは相変わらず嬉しそうに尻尾を振って、草野くんは相変わらず穏やかな表情であたしを見る。そしてあたしは・・・・ここで別れてしまうことが名残惜しくて、でもそんなこと口に出せなくて、少しだけ自己嫌悪。うつむいた顔を、上げられないでいた。


「迷子になったこと、ショコやユカには内緒にしておくからいいよ。心配しないで」

「・・・え?」

 驚いて顔を上げると、あたしを見つめる草野くんと目が合う。おかしくて笑いたいのを堪えているのがよくわかって、その表情は・・・少し滑稽だ。


「そんな、道間違えたくらいで落ち込むことないよ。牧野サンまだこの辺の地理に疎いわけだし、大丈夫、大丈夫、誰にだって間違いはあるから・・・ね?」

「・・・うん」


 最強の勘違い。あたし、そんなことこれっぽっちも思っていなかったのに。さっきもそう。彼の家の前でうろうろしていたあたしに、これっぽっちも不信感持ってないし。でも、人の裏を見ないということは、きっと、彼自身も裏表のない人だということ。ふと、期末試験の後、みんなで行ったカラオケ帰りに交わした会話を思い出した。



『あたし、草野くんの歌声好きだよ』

『うん、俺も牧野サン好き』



 もし彼が本当に裏表のない人であるのなら、あの時の言葉は、そのまま受け取っていいということ?あの頃、まだ草野くんのことをこんなに知らなかったし、『いい人』っていう認識しかしていなかったから。でも、今は違う。あの言葉が、彼の本心であって欲しいと思う。


「じゃあ、月曜日にガッコでね。あ、もしショコにメールするようなことがあったら『いつまでも俺に頼らずに、田村に直接聞いてみれば?』って伝えておいてよ。どうせ田村はショコの気持ち知ってるわけだしさ、逆に自分から言い寄った方がうまくいくかもしれないしね」

「・・・でも、いつかのマックのときみたく、田村くん突然切れるかもしれないし・・・」

「あいつも反省してたから、それはだいじょーぶでしょ?じゃあね、早く部屋に入りなよ」


 手を振って歩き出す彼。とっても離れ難くて、思わず呼び止めてしまった。不思議そうに首をかしげて、どうしたの?と尋ねるけれど。


「あ・・・なんでもない。月曜日に学校でね」


 バイバイ・・・とあたしも手を振って、彼の姿が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。



 草野くんの気持ちが嬉しいくせに、その気持ちに応える気は・・・ない。草野くんが気になって仕方ないのに、その気持ちを伝える勇気は・・・ない。中途半端なあたし。
 血の涙を流す道明寺。あたしだけを忘れた道明寺。・・・ダメだ。過去を忘れて前に進めるほど、今のあたしは強くない。道明寺を過去にできるほど、あたしは強くない。

 もう一度、空を見上げた。見えるのは半月と、一等星の星。あたしは、これからどれだけの夜を越えていくのだろう。月が姿を消すように、あたしもきっといろいろなことを忘れていく。でも、星がいつも煌くように、心の中には、いつまでも忘れない何かを持っていたい。いつでも自分を見守っていてくれる、大切な存在を忘れずにいたい。


「・・・よし」


 もう一度、草野くんが進んでいった道を見る。大きく深呼吸して、部屋のドアを開けた。



おわり


                 
                  BGM♪スピッツ:夜を駆ける