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 ノックの音と共にゆっくりと部屋の扉が開く。たまには・・・と、受験生らしく――らしく、といってしまうあたり、まだ自覚が足りないとは思うのだが――机に向かって必死に数学の問題を解いてた俺は、問題集見つめたまま、後ろを振り返らずに『誰?』と言うと、妹の声で、『支度終わったから出かけよう』という返事が返ってきた。うん・・・と頷き、はたと手を止める。手元に置いてあったケータイの時間を見れば、まだ11時半だ。確か、約束――というか、一方的に言われただけなのだが――は1時出発だったはずなのだが。

 水・木・金・土を何とか平穏に過ごし、今日は日曜日。例の・・・である。妹に無理やり『彼氏』のふりをさせられる日だ。振り返れば、妹はすっかり出かけられる準備を終わらせて、扉にもたれかかっているのだが・・・俺はまだTシャツとハーフパンツ――つまりはパジャマだ――というカッコだ。髪も梳いてなけりゃ、顔も洗ってない。


「いや、俺まだ無理だし」

「でも、あたしは支度できちゃったもん」

「・・・そういう問題じゃなくてさ・・・」

「お母さん、お友達と出かけちゃった。『お昼ご飯、たまには自分達で作りなさい』だって。だから、天神行くんだったらついでに食べようよ。ってか、おごって」

「俺、金ねーし・・・」

「日曜日、お父さんにお小遣いもらったんでしょ?聞いたよ。『チャンスがあったらおごってもらえ』って言ってたもん」


 ・・・あのオヤジ、たまにはステキなことしてくれると思ったら、この仕打ちかよ。『野球行く』って言ってもらったんだから、使っちゃってることくらいわかるじゃん。・・・まあ、実際多少は残ってるんだけど。ってか、ホントこいつには甘いよな。俺なんかより絶対小遣いもらってるぞ、こいつの方が。しかもその事実は、俺には教えてくれないはずだ。いいなー、末っ子の、しかも女の子って。

 しかし。母さんいないとなったら、作るのは必然的に俺だ。弟は受験生の自覚もなく、朝っぱらから遊びに行ってしまった。中学入ってから部活漬けのこいつは、家の手伝いなどほとんどしない。小学生の頃、多少やっていた記憶はあるけれど、それでも皿を運んだり、母さんが洗った食器を拭いたり、それをしまったり・・・程度だったから、何か作れる、というわけではない。日曜日の昼間にカップラーメンを啜る――しかも、今から『彼氏彼女』を演じる妹と2人きりで――というのは、あまりにも悲しいじゃないか。


「・・・マックとロッテリア、どっちがいい?」

「・・・もっといいもの奢れよ」

「俺だって金ねーし」

「あたし、香港蒸蘢行きたい」

「・・・どこ、それ」

「IWATAYAに入ってるの。1人2000円で90分間飲茶の食べ放題」

「・・・自分で金出すなら食え。俺外で待っててやるから」

「・・・ケチ」

「ケチで結構」

「・・・マックでいいよ。下でテレビ見てるから、準備できたら呼んで」


 役に立たないな・・・なんてしかめ面しながら、部屋のドアを閉める。シャーペン置いて伸びをして。昼メシがないなら仕方がない。あいつ、まだお子様だから、ハッピーセットでも買ってやれば喜ぶだろう。・・・いや、本来なら、『頼みごとを聞いてあげる』俺がおごってもらえるはずなんだけど・・・とも思うけれど、年下にたかるのもどうかと思うし、たまにはいいか。相手があのバカなら、話は別だけど。

 立ち上がってクロゼット開けて服を選ぶ。相手があいつならオシャレする必要もないか・・・と思ったけど、一応彼氏役だし、引き受けたからにはちゃんとやってやりたいじゃん。適当なカッコして、その原中の何とやらに『草野の彼氏ってダサい』なんて余計なこと言われたくないし。・・・ってまあ、服でカッコつけるくらいしか出来ないのが少し悲しい。顔のつくりばかりはどうしようもないから、仕方ないんだけどさ。

 バッグをつけて階段降りると、テレビの音が次第に大きくなる。リビングを覗くと、そこには今まで見たことのない笑顔を浮かべながら、テレビを食い入るように見つめる妹の姿が。気持ち悪い・・・と一瞬身を引いてしまったが、こいつだって人間だから、嬉しくて笑っちゃうこともあるよな・・・と気を持ち直して、『準備できた』と声をかける。

            

「うん、でももう少し待って」

「何で?」

「今、ふかわりょうが出てるの。このコーナーは見なきゃでしょ・・・」

「・・・へぇ」


 画面に食い入るこいつは、もうテコでも動かなさそうだから。小さく溜息ついて隣に座る。画面の中では、マッシュルームカットの髪をさらさらとなびかせながら、情けない表情を浮かべた「ふかわ氏」が、司会者や他のレギュラーに色々なことを言われていた。『そんな事しないでくださいよぉ・・・』なんて泣きを入れて。情けないなぁ・・・と思うけれど、妹にしたら、この情けなさがツボなんだよな、きっと。人って何が良くて何が悪いのか、よくわからない。同じ兄弟でもそうなんだから、他人なんて、本当にわからないよなぁ・・・


「・・・お前は・・・さぁ」

「ん?」

「・・・いや、何でもない」


 色々聞きたかったけど、何を聞きたいのかわかんなくて、開いた口を再び閉じる。テレビではふかわりょうの顔がアップになり、コマーシャルに移った。妹は画面から視線をずらし、俺をじっと見る。


「今更だけど、やっぱり迷惑だったよね・・・ゴメン」

「いや、ホントに嫌なら絶対引き受けないから、それはいいんだけどさ・・・」

「・・・大兄は、復讐なんて馬鹿げてる・・・って思ってるかもしれないけどね・・・」


 にやけた顔が真剣になり、声のトーンが落ちる。もじもじと動かす足のつま先をじっと見つめながら、妹がゆっくりと言った。


「確かに、自分にとってのいやなウワサ、しかもデタラメなこと言われたから、腹も立ったしムカついたし、絶対嫌がらせしてやる・・・って思ったよ。原中の先輩に。でもそれ以上に、もし、あたしがココで泣き寝入りしちゃったら、この人はずっとこういうこと続けてくのかもしれないな・・・って思ったら、あたし以上に、これから先、この人に同じことされるかもしれない女の子が可哀想だと思って・・・あたしはこういう性格だから、立ち向かって反論していけるけど、そうできない女の子って、たくさんいると思うの」

「・・・うん」

「だから、ソウイウコトすると、絶対に自分に返ってくるんだよ・・・って、教えてあげる人もいるのかな・・・って、えらそうなことだけど、ちょっと思っちゃったの」

「・・・そっか」


 急にしんみりとする部屋の空気。隣にいる5つも年下のこいつは、俺なんかよりずっとずっと大人だな・・・って思った。同じ人なのに、思うことや感じることが違うってこと、ちゃんと分かってる。それに比べて俺は・・・なんて思ったけど。


「・・・でもまあ、1番の目的は、こいつのプライドをずたぼろにするっていうのが目的なんだけどね・・・」


 にやりと笑いながらそういった妹を見て、思わず笑いが零れた。


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