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 ならない、なります、なる、なる時、なれば、なれ・・・と、中学で習った動詞の五段活用が頭をめぐる。好きにならない、好きになります、好きになる、好きになる時、好きになれば、好きになれ・・・どれくらいそんなことを繰り返していただろう、彼女の言葉を聞いた瞬間にスパークし、動きが完全に止まってしまった思考が、ようやく回復し始める。彼女は今、確かに言った。妙にはっきりした声で、俺のことは好きにならない・・・と。



「・・・どして?」


 カラカラに乾いた喉。震える声を振り絞って、何とか言葉にする。けど、自分の声じゃないと勘違いするほどにか細く上ずっていて。情けないことに、声だけじゃなくて手や足までぶるぶる震えててさ。ベンチに座っていなかったら――立ったままこの言葉を聞いていたら、きっと腰を抜かしてその場に座り込んでた。震えに気がついたとき、どうしようもないくらいに笑いがこめあげてきた。もちろん、自嘲のそれだ。この程度で動揺するなんて、情けないなぁ・・・と。


「・・・さっきも言った。呪いがかかってるから。人を好きになれない呪いが・・・」

「ってか、俺さっき言った。呪いなんてありえないって、この世に存在しないって。そんなばかげた作り話理由にされても、納得いかないんだけど・・・」


 だっておかしいじゃん。『好きにならない』って言葉は、自分にブレーキかけてるようにしか聞こえないんだけど。ってことは『好きにならない』呪いなんてあるはずがない。牧野サンが自分で勝手にブレーキかけて、俺のこと、好きにならないって決めてるだけじゃん。そんなの、おかしい。


「牧野サン、今『好きにならない』って言ったよね。『好きになれない』じゃなくて。それって自分の意思でしょ?呪いでも何でもないじゃん。自分でブレーキかけて苦しんでるだけじゃん。さっきも言ったけど、俺は牧野サンが好きなんだよ?それなのにその言い方ってないんじゃない?ほかに好きな人がいるとか、俺のこと生理的に受け付けないとか、友達としてしか見えないとか、『好きになれない』理由があるんだったら、悲しいけど仕方のない事だって諦めもつくよ。でも違うじゃん。あなたのこと、嫌いじゃないしむしろ好きになりそうだけど、一緒に居ることはできないのごめんなさい・・・って、そんなばかげた言い訳にに納得でき・・・・」

「うるさいうるさいうるさいっ!!」



 静寂の室見川に、金切り声が響く。その声はあまりに痛々しくて、言いかけていた言葉を思わず飲み込む。そして、いつの間にか正面に立ち、俺をギロリと睨みつける牧野サンに、本当の意味で言葉を失った。屈託のない笑顔と、時々見せる儚げな笑顔。今はそのどちらでもない、例えるならば四肢を引きちぎられ、苦痛に耐えるような表情――苦悶、と言っても過言じゃない――で、大きな目から涙をぽろぽろ流しているのだから。


「あんたに何がわかんの?親に甘えてぬくぬく育って、たいした恋もしたことないくせに。自分と住む世界が違う人を好きになった辛さが分かる?ただ一緒に居たいだけなのに、執拗に追い掛け回される不安とか鬱陶しさが分かる?一緒に居られると思った瞬間、あたしのことだけ忘れちゃって・・・独りで置いてきぼり喰らわされる寂しさとかやるせなさとか、あんたにどれだけ分かるの?わかんないくせに、えらそうなこと言わないでよ!」


 一気にまくし立てて、肩で息をしながら呼吸を整える。涙を拭くためにごしごしこすった目は、暗がりの中でも赤いんだろうと予想できて。頭の中では結構酷いこと言われたんだろうな・・・と認識しているのだけれど、心が動かない。怒る気持ちも、悲しむ気持ちも湧いてこない。


「・・・ごめん、言い過ぎた」


 大きく深呼吸した彼女が、少しだけ表情を和らげる。でも、苦しみの表情が消えたわけではなくて。そう謝った彼女に返す言葉も見つけられず、黙ったまま小さく頷いた。


「ずっと知りたがってたこと、教えてあげようか。どうして文化祭で『ハルジオン』演奏して欲しいって言ったのか」


 ハルジオンと言われ、ああ・・・と思い出す。演奏の途中に彼女が涙し、俺が歌えなくなった曲。一度だけ理由を聞いたら、『嫌いな曲だから』と返された曲。亜門の部屋で、聞くことを頑なに拒否した曲。そういえば、田村にスコア代返さなきゃ・・・と、こんな時にどうでもいいことを思い出す自分が、妙に冷静で滑稽だ。


「歌ったことあるんだったら、この歌の歌詞分かるよね?あたし、この歌が好きだった。好き・・・って言うよりも、この歌聴けば頑張れる気がしてた」


 何が・・・?と訊こうとして、それは愚問だと気付く。ハルジオンは、道端に咲く白い可憐な花を、どんなときもずっと心に抱いていこうという歌。自分が汚れてしまっても、傷ついても、前に進めなくなりそうでも、風に揺れてひっそりと咲くその花を思い出せば、自分は頑張って行ける・・・と。




「あたしはあいつ・・・道明寺にとっての、その花になりたかった。あたしが『咲く』意味は、彼のためで、彼を元気付けるためでありたかった。この先どうしようもなくて別れなきゃいけないことがあっても、もう2度と会えなくなったとしても、時々あたしを思い出して、それで頑張っていけるんだったらそれでいいと思った」

「・・・・・」

「でも、現実って嫌なものだよね。あたしは道明寺の中で一番必要のないものになっちゃってさ。なんか、バカみたい、1人でいい気になってそんな都合のいいこと考えて・・・」


【いつの日もふと気付けば僕のすぐ傍で どんなときも白いまま揺れてた 誰のタメ? 何のタメ?】


 城南祭で歌いながら、内容についてぼんやりと考えたことを思い出す。俺はこの曲を作った藤原くんの事ばかり考えてた。誰を思って、こんな詩を書いたんだろう・・・って。でも牧野サンにとっては全然違う意味で。彼女は、この先誰を思って揺れよう、誰を思って咲こう・・・いや、想う人が居なくなってしまったのなら、いっそ咲かずにかれてしまってもいいんじゃないか・・・そんな風に考えていたんだ、きっと。


「だから、大好きだったけど大嫌いになった。忘れられた『ハルジオン』に、これ以上咲く意味なんてないから。忘れられたあたしが道明寺の傍にいる理由なんて、もうないから。あとは・・・亜門の部屋で話したのと一緒。この曲聞くと道明寺のこと思い出して、悔しくてやるせなくて、絶望感じるくらいにどうしようもなくなったけど。でも草野くんと知り合って、仲良くなって・・・草野くんが歌ってくれるなら、大丈夫かな?ってふと思った。ちょっと高くてちょっと掠れた声で歌ってくれるなら、もうあいつのこと思い出さなくて済むのかな・・・って。バカだよねあたしも。そんなはずないのに・・・」

 最後はほとんど掠れていて、聞き取るのが精一杯だった。気丈にも泣くのをぐっとこらえて、でも唇が震えてて。かける言葉も見つからず、ただ、じっと俯いて次の言葉を待つ以外、俺にはどうすることもできない。情けないと思う。カッコ悪いと思う。もし俺が亜門だったら、きっと彼女を大きく包み込むことができるんだろう、とか、もし俺が田村だったら、もっと冷静に話を聞いて、気の利いた言葉のひとつでもかけられるんだろうなとか、そんなこと考えててたらすげー悲しくなってきた。気の利かない自分に。人を平気で傷つける自分に。そして、そのフォローも何もできない自分に。
彼女の口からつむぎだされる言葉は、少なからず・・・いや、かなりの衝撃で。ハルジオンが嫌いな理由なんて、彼氏――ドウミョウジと一緒によく聞いたとか、奴の好きな曲だったとか、そんな程度の問題だと思ってた。浅はかな考えしか思いつかなかった自分を恥ずかしく思う反面、何故、彼女はここまで自分を投影し、そして苦しむのだろうという、新たな疑問がわく。彼女がしてきたのが、『普通の高校生』の恋愛じゃない・・・ということは、信じがたくはあるけれど理解したつもりだ。身分不相応だと別れさせられた・・・と、作り物の世界でしかあり得ないと思っていたことが、現実として起こっていたという事実も。ただ、どうして彼女はそれに対して怒ったり、悲しんでいるのではなく怯えているのだろう。彼の母親――魔女と言ったほうが適切かもしれない――やドウミョウジ自身を恨む・・・というのなら話はわかる。自分を捨てた男を。そんな辛い過去があったから、早く新しい人を見つけて忘れようとか、反対にそんな風にして傷つけられたから、次の恋をするのが怖い・・・とか。
でも、彼女が感じているものはそのどちらでもないように思う。前を見据える希望とか、恋をする臆病さとか、そんなものじゃなく、何か怯えみたいなもの。人を好きにならないと頑なに自分にブレーキをかけたり、呪いをかけられたなんて言ってみたり。前へ進むのに、人を好きになるのに・・・何がそんなに怖いんだろう。
ケータイで時間を確認すると、短針は「10」の文字に限りなく近づいていた。もう、タイムリミット。気になることはたくさんあるし、言いたいこともたくさんあるし、正直言ってかなり傷ついてるけど、これ以上遅くなるのはちょっと・・・だ。俺だけならいいけど、牧野サンは女の子だし。中途半端に話終わらせてここで別れちゃったら、うやむやのまま流れちゃう・・・っていう懸念はあるし、納得いかないまま振られるのも少し癪だけど。


「・・・もう遅いし、帰ろう。送るから」


 立ち上がろうとした俺を、牧野サンは『待って』と制す。正直、驚いた。帰りたいのは俺じゃなくてむしろ牧野サンの方だと思ってたから。これ以上昔話続けたくないだろうなって、勝手に思ってたから。


「もう少し付き合ってよ。昔話、まだ終わってないし・・・」

「でも・・・」


 辛いだろう?という言葉は、あえて飲み込んだ。隣にゆっくりと腰を下ろした彼女は、一瞬俺を見て。その目が言っていたから・・・言ったような気がしたから。『最後まで聞いて・・』と。

    

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             BGM♪bump of chicken:ハルジオン