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 ファーストキスはレモンの味・・・なんて古いキャッチフレーズがあったのを覚えてる。何かで読んだのか、誰かに聞いたかはすっかり忘れてしまったけれど、妙に頭の中に残ってて、『めちゃ酸っぱいじゃん』って突っ込んだことがあるから。でも、それは嘘だと今気付いた。だって、牧野サンとのキスは、さっき飲んだコーラの味がしたから。微かに甘くて、唇が少し冷たかった。レモンみたいに、爽やかじゃなかった。

 きっと、ほんの一瞬だったんだと思う、彼女とこうしていたのは、彼女にこうしていたのは。俺が怒っている理由がわからないと言った彼女がとても腹立たしかった。酷いと思った。何故分からないのか、俺にはわからなかった。分からせるためにはどうしたらいいだろうと瞬時に判断して。かなりムチャクチャな行動に出たと思う。こうすれば、嫌でも気付くだろうと思って。こうすれば、俺の気持ちに気付いてくれると思って。

 ゆっくりと離した唇。今までにないほどの至近距離で彼女の目を覗く。大きな目はさらに大きく開かれていて、今自分に起こったことは、きっと頭の中で理解できないでいるだろう。それでも、少しでも彼女表情から気持ちが読み取れたら・・・と思ったけれど、それは徒労に終わった。だって、彼女の表情には驚きの気持ち以外、何も表れていなかったから。怒りも悲しみも、もちろん、喜びも。

 不意に戻る現実。鼓膜が破れそうなほどの歓声と、視界を遮るほどの紙吹雪。抱いていた彼女の肩から手を離し、周りと同じように立ち上がる。グラウンドを見れば、城島が3塁を蹴ってホームベースに向かう途中で。正面の大画面には、城島がバットを振った瞬間が映し出されている。打った球が飛んでいった先はドラゴンズ選手のグローブの中ではなく、敵を応援するファンの集うレフトスタンドだ。ガッツポーズをしながら戻る城島に、球場中が沸く。


「ど・・・どっちがホームラン打ったの?」

「あ・・・・えっと・・・ホークス・・・」


 パッと牧野サンが立ち上がって、俺の肩口をぐっと引っ張る。さっきの今だから、まさかそんな仕草するとは思わなくて。驚いて彼女を見たけど・・・無理してるの、丸分かりだ。一生懸命笑顔を浮かべているだけど、口元が少し引きつってる。声も上ずっていて、少し震えていて。その上、俺の顔を見ようとしない。不自然なくらいにマウンドに神経を集中させているのが分かった。


「ホームラン、打つ瞬間見たかったな・・・って、さっき誰か打ったよね、名前忘れちゃったけど。っていうか、選手の名前全然わかんないんだけど。でも、どうしてホームランって向こう側へ飛んでっちゃうんだろうね」

「・・・牧野サン?」

「右側から打つ人がバット振ったら、右側に飛んできそうな気がするんだけどな。でもあたしは野球初心者だからよくわかんないけど・・・」


 バッターボックスにはズレーダが入り、彼の応援歌が流れ始める。それにあわせて、試合前に渡したメガホンを叩きながら、周りの真似をして彼の名を叫ぶ。俺が彼女を呼んだことなんて、まるでなかったことみたいで。もう一度呼びかけようとして、気付いた。隣り合う彼女の肩からあふれ出す拒絶のオーラに。何故、彼女は頑なに俺を見ることを拒否するのだろう。何故、彼女は俺に話かけられることを拒絶するのだろう。そう考えて、分かった。なかったことにしたいのだ、この状況の中で起こったありえないアクシデント――謀ったのは俺だけど――を。口を滑らせて、ドウミョウジと行った野球のことをこぼしたことも、それに対して俺がつっかかったことも、きつい口調で言い合いをしたことも、俺が・・・キスしたことも。

 体の力が抜けていくのが分かった。逆転を願って湧き上がるホークスファンとは対照に、気持ちがどんどん萎えていく。立っていることもなんだか億劫になってしまって、ストン・・・と、椅子の上に腰を下ろした。それでも、牧野サンは俺を見ない。普段の彼女なら心配そうに振り返って、『大丈夫?』と心配そうな声のひとつでもかけるはずなのに。正面を見てメガホン叩いて、応援に没頭している・・・振りをしている。大きく息を吸って吐くと、体に酸素が行き渡ったのかな、少し頭がクリアになった気がした。しばらくそうして座っていて、そして心の奥で怒りが沸きあがってくる。『なかったことにする』というのは、一体どういうことなんだろう。
なかったことにするというのは、つまり俺とそういうことをしたくなかったということで、そういうことをしたくなかったということは、つまり俺のことは好きじゃないということだ。それなら、どうして今日一緒に試合を見に来ようなんて思ったんだろう。どうして、試合が始まる前から一緒に遊ぼうと思ったんだろう、試合前の長い時間を、俺と過ごそうと思ったんだろう。どうして、誘ったときに嬉しそうな表情を見せたのだろう。
牧野サンを送って行った9月のあの夜、アパートの前で呼び止められたとき、一瞬心臓が爆発しそうなくらいに高鳴った。呼び止めるなんて、もしかして・・・って。でもきっと都合のいい妄想だからと、必死に平静を保って振り返った。彼女は知らないだろうけど、俺は知ってる。あの後――彼女のアパートの前で別れた後、俺が角を曲がるまで部屋に入らなかったこと、ずっと、俺の背中見てたこと。

 やり場のない怒り。一体、どうしたらいいんだろう。思わせぶりな態度をとったのだからと、彼女だけを責めるのは間違っている気がする。だって彼女の言動をそう解釈してしまったのは、紛れもない俺自身なんだから。でも、だからって自分だけでこの怒りを消化できるほど、俺だって大人じゃない。

 悶々となった気持ちを持て余しすぎて、苛々は爆発寸前。ブルゾンを持ち、すっと立ち上がる。もう、限界。これ以上悩みたくない。


「・・・・え?ちょ、く、草野くん?」


 立ち上がったついでに牧野サンの腕をぐっと掴み、観客と座席の間を抜ける。みんな応援に真剣になってて、ちょっと前に乗り出し気味になってて、ただでさえ狭いところ抜けるのは楽じゃなかったけど、でも仕方ない。後ろで腕をつかまれた牧野サンが何か言っているような気がするけど、それも構ってられない。ずっと心待ちにしてた試合だけど、自分の気持ちのほうがずっと大事だ。欲求不満のまま気持ち押し殺して、うやむやになんかしたくない。

            
 混み合うスタンドから何とか抜け出て、売店の辺りまで来る。ここまで観客の熱気が届くはずもなく、10月の夜はひんやりと肌寒くて、急いでブルゾンを羽織る。


「ね・・・どうしたの?まだ試合終わってないのに・・・逆転のチャンスだったんだよ?一番いいところじゃないの?」


 少し息を切らした牧野サン。首から俺が渡したホークスの黄色いメガホンぶら下げて――それを見て、せっかく買った自分のメガホンを、席に置いてきてしまったことにようやく気付く――。鼻の頭に少し汗かいて、左脇に、昼間俺が取ったパンダのぬいぐるみ抱えて、不満そうな顔で俺を見る。・・・って、なんで牧野サンが不満そうなわけ?ホントに不満感じてるのは、不満感じなきゃいけないのは俺のほうなのに。


「・・・試合、いいところだったかもしれないけど」


 深呼吸して、なるべく冷静を装って。自分にブレーキをかけながら言葉を選ぶ。怒らせちゃいけない、逃げられちゃいけない、と。怒りをぶつけることが出来なければ、怒りを鎮めるしかない。怒りを鎮めるためには、きちんと話さなきゃ。このまま逃げられたら、俺マジでおかしくなる。


「もっと大事なことあるから・・・ってか、さっきのこと、うやむやにされたくないんだけど」


 真剣な表情と真剣な声。傍から見れば不機嫌なだけに感じるかもしれないけど、俺は切実だ。牧野サンをじっと見据えると、硬かった彼女の表情がさらに硬くなる。逃げ場なんて与えない。ちゃんと納得させてよ。どうして一緒に出かける気になったのか、どうしてなかったことにしてしまうのか。


「・・・ここにいても仕方ないから、とりあえず出よう。試合終わると、混雑してすごいことになるし」


 有無を言わさず彼女の手を引く。試合はもうすぐ終わるけれど、今日はまだ終わらない。無言のまま2人で歩くバス停までの道。前にもあったっけ、こんな風に手をつないで歩いたことが。でも、あの時とは違う。大きな怒りの中にある、少しの絶望とわずかな望み。それはまるで、出口のない迷路へ向かうような気分だった。


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         BGM♪スピッツ:さわって変わってpart3