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 目だけカウンターから出して、入り口のドアを確認。坂口さんが振り返り、指で小さく『マル』を作った。大きく息を吐いて、ようやく立ち上がる。時間にしてみれば10分や15分のことだったんだろうけど、ばれやしないかとひやひやしながらひざを抱えていた時間は、その10倍にも20倍にも思えた。


「あー・・・心臓に悪りぃ・・・」


 うー・・・と伸びをする俺を、亜門が苦笑しながら見る。おめでたい奴・・・とか何とか言いながら。きっと、多少の嫌味も込めていただろう。受験勉強、試験勉強に必死になってる生徒を思って、一杯も飲まずに帰った崎やんと、そんな生徒思いの優しいセンセを裏切るかのように、高校生はおそらく足を踏み入れないだろう場所でグラス磨きなんてしちゃってる俺。しかも受験生。


「いい先生だよね、崎山先生って。俺も、高校のときにあんな先生がいたら、もっと真面目に学生生活してただろうな・・・って思うよ」


 今しがた崎やんが出て行った扉を見ながら、坂口さんがうんうんとうなずいた。うん。俺もいいセンセだと思う。そして、そんな崎やんを裏切って、こんなとこで油売ってる俺は、悪いセイトだと思う。でも、気にしない。


「って、坂口さん十分優秀じゃないっすか。福大工学部でしょ?」

「いやー・・・福大は滑り止めだったしね・・・俺、ホントは九大行きたかったんだけどさ、努力不足で落ちちゃって。自分が努力しなかったことが悪いってのは分かってるけど、今でも、時々思っちゃうんだよ、『担任がもっと親身になってくれてたら・・・』って。いつも『お前なら大丈夫』しか言ってくれない人でさ、その言葉信じて、勉強真面目にやらなくて。で、この結果」

「でも、担任のセンセ、ホントに大丈夫だと思ってたんじゃないっすか?」

「いやー・・・わかんないけどさ、でも、嘘でも『もっと頑張れ』って言ってくれたらよかったと思うよ。まあ、今だから言えることだけどね・・・」


 だから、マサムネくんは崎山先生に辛いこと言われても、それをバネにして頑張らなきゃだめだよ・・・と、坂口さんが笑う。そして、亜門もその言葉にうなずく。・・・そうなのか?じゃあ、今日崎やんがぼろぼろに俺のことけなした――とは言わないかもしれない――のは、俺のためを思ってってこと?まあ、そう考えれば、昼間のことも・・・許せなくは、ない・・・かな。


「・・・俺、帰る」


 崎やんの気持ち考えたら、やっぱこんなとこで油売ってちゃいけないよな。ポツリと呟いて、更衣室兼倉庫に入ると。


「マサムネくん、可愛いですね・・・」

「あいつの特権だよな、あの素直さは・・・」


 2人の含み笑いが聞こえてきた。ふん。どうせ俺は素直で可愛いガキだよ。2人がいいたい事くらい分かるぞ・・・と、悪態つきながらせっせと着替えて。あ、ズボン汚れてるや。そりゃコンクリートの上にずっと座ってたんだもんな。きょろきょろと周りを見ると、クリーニング行きらしき制服が突っ込まれている篭を発見。その中に、同じように入れておいた。ジーンズのポケットに入れておいたケータイが光っていることに気付き、取り出して確認。弟からのメールだ。たいしたことじゃないだろうな・・・と思いつつ、一応開いてみる。

【いいもの届いてるよ】

 何だよ、いいものって。相変わらずムカつく奴だよな、中途半端なメール入れるなっつーの。悪態つきながらドアを開けると、目の前にはグラス――いつも俺が拭くカクテルグラスじゃなく、水割りなんかを飲むような太くて短いやつだ――を持つ亜門の姿。
                         
「・・・何?」

「今日の報酬」


 グラスをぐっと俺に押し付ける。甘くておいしそうな香りが、鼻をくすぐった。グラスに挿された短いストローを咥えて一口すすると、りんごのすっぱさとバニラアイスの甘さが口いっぱいに広がる。


「・・・んまい」

「当然、俺が作ったんだから。アップルバニラミルクっていうカクテル。シェイクみたいだろ?」

「へぇ・・・」


 ここに来ると、意外な発見をたくさんする。カクテルって一口に言っても、本当に色んな種類があって。まさかこんなシェイクみたいな飲み物、言われなきゃ絶対わかんないよな、カクテルだなんて。いや、むしろ亜門以外の奴に言われても、絶対信じないと思う。『酒に詳しくないからって、俺のことだますなよ』とかって。


「ま、急いで帰らなくてもいいだろ。カウンターの隅っこ座ってゆっくり飲んどけ」

「ありがと」


 ありがたい亜門の進言通り、キッチンから外へ出て、目立たなそうな椅子に座り、カクテルを口に含む。これ、りんごじゃなくてイチゴだったら、思いっきり俺の好きな味なんだけどな。今度、亜門に言ってみようかな。イチゴで作ってって。

 ドアのベルが鳴って、坂口さんが若いOLさんたちをテーブル席へと案内する。暗い室内には、相変わらずジャズが流れてて。この声知ってる。柔らかくてハスキーな女の人の声。名前、なんていったっけ・・・頭抱えて思い出そうとしたら、『ヘレン・メリル』と、亜門の声が聞こえた。


「俺、好きなんだよ、この人」

「よく知らないけど、俺も嫌いじゃないよ、この声」


 そう答えたら、お前と同じ趣味かよ・・・と、からかい半分に笑われた。相変わらずの子ども扱い。


「・・・牧野サンの進路、どうするの?」

「別に。どうもしないよ」


 ちょっと頭に浮かんだこと、思い切って亜門に聞いてみた。けれど。ケンモホロロな答え。びっくりしてカクテル思いっきり吸い込んじゃって、げほげほと咽た。


「あいつも子供じゃないんだからさ、自分の進路くらい自分で決められるだろ」

「でも、牧野サンだって悩んでるかもしれないじゃん」

「かもしれないじゃなくて、完璧に悩んでるだろうな・・・希望表も出さなかったみたいだし」


 さらりとってのけるけれど・・・いいの?それで。思わず亜門をまじまじと見る。そんな俺の視線に気付いて、亜門が口を開いたのと同時に、坂口さんがOLさんたちのオーダーを持ってきた。一瞬息を呑んで、坂口さんのオーダーを繰り返す。そりゃそうだ。身にならない俺との言い合いよりも、客の方が大事だから。シェイカーにリキュールやらシロップやら――俺には何がなんだか分からないけれど――を注ぎ込み、リズミカルに振り出す。


「・・・牧野の相談に乗ってやりたいとも思うし、俺には俺なりの考えがあるけど、それをあいつに押し付けるのは間違いだ。あくまでも俺はあいつの『後見人』みたいなものであって、『保護者』じゃないからな。頼ってくるなら助けてやるけど、無駄に手は出さない。それがあいつのためでもあるし、俺達のルールでもあるし」


 シェイカーを振りながら、ポツリと低い声で呟く。それは俺に聞かせるというよりもむしろ、自分自身に言い聞かせているような気がして。


「・・・亜門の考えって?」


 そんなの優しくない!と反論しかけた言葉をどうにか飲み込んで、代わりに、そう言ってみた。鮮やかなオレンジ色のカクテルをグラスに注いで、ミントの葉を添えると、シルバートレイを持った坂口さんに渡す。無事OLさんたちの口に入ったことを確かめてから、ゆっくり亜門が口を開いた。

       

「そりゃ、大学に進学するほうがいいってこと。学歴が全てじゃないけどさ、あいつ見てると、学校行くの楽しそうだし、成績もいいし、このまま就職・・・ってのはもったいないと思うよ。将来のこと考えても・・・な」

 俺みたいなことになるのはかわいそうだし・・・と、言葉を続ける。

「亜門みたいなことって?」

「学歴ないのに世間に放り出されることだよ。お前に言ってなかったっけな。俺、大学入ったはいいけど、自分のやりたいこととガッコでやることが食い違ってて・・・サボり繰り返してたら、留年しちゃって・・・ガッコに残る気もないから、そのまま辞めてやった。運よく仕事紹介してもらったから良かったけど・・・誰もが俺みたいにうまく行くとは限らないから」

    
「はぁ・・・」


 なんか、意外。亜門にそんな過去があったなんて。いや、でも考えれば想像できたことかもしれないけど・・・


「とにかく、まだ悩む時間はあるわけだし、あいつに任せるさ。東京に戻って就職するのか、それともこっちで就職するのか。進学するのか・・・もしかしたら、お前に相談するかもな・・・」

「俺に?」

 ありえないよ。牧野サン、俺にそんな個人的なこと相談してくれるほど、俺のことなんて好きじゃないもん。俺のこと、『どじで間抜けなクラスメイト』くらいにしか思ってくれてないはずだもん。あ、自分で言って淋しくなった・・・

 亜門にそんな内容のことを言ったら、いつもみたいに意地悪そうに笑ってさ。


「世の中って、予想外のことが起こったりするもんなんだぜ?」


 と言った。

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