牧野サンは不思議だ。写させてもらった古典の宿題は完璧―――これを機に、彼女には時々宿題を写させてもらうことになるのだが―――だった。流石『得意』っていうだけあるな・・・って思ったんだけど、 実は、他の教科も結構出来るらしくて。崎やんがポツリと呟いてたっけ。牧野サン、実力テストの順位すごく良かったって。どの先生も、転校生に突然上位の順位を取られちゃったから、自分たちのプライド傷ついたみたい。城南だって、それなりにレベルの高い高校なのに・・・って。

 勉強が得意だから・・・って運動が苦手ってわけでもなさそうで。体育の時間なんか、結構活発に動いてるし。ハーフパンツから覗く足がなんとも言えない・・・なんて、そんなふしだらな事考えてるわけじゃないけど、どうしても、目が行ってしまうのだよ、隣のコートでバスケしてる女子に・・・。
 制服も膝丈のスカートで―――実は、ちょっと校則に引っかかってたりするんだけど―――
白のルーズソックスにアディダスのスタンスミス・コンフォート履いちゃったりすると、見慣れたそれがすごく新鮮に見えるから不思議だ。俺も真似して、小遣いもらったらグリーン・ラインのカントリー買おうかな・・・なんて思わず考えちゃったりして。今のVANSも嫌いじゃないけど、牧野サンとひそかにおそろいってのも、秘密っぽくていいかな・・・と。まあ、彼女に許可取るわけじゃないけどさ。

 初めは『東京からの転校生だから』って敬遠してたクラスの奴らも、いつのまにかかなり打ち解けてた。硬い表情のまま教室で1人座ってるイメージの牧野サンも、今じゃ大口開けながら楽しそうに笑ってる。そんな姿はいいと思うけど、ちょっと不満だ。だって、彼女と仲良くなろうとして・・・ってか、クラスの奴らよりちょっと優位に立とうとして、結構頑張ってたのよ?俺。田村なんか、席替えで偶然彼女の隣になったからって、休憩時間に談笑なんかしてやがる。恨めしそうに奴を見ると、優越感見栄見栄の笑顔浮かべちゃったりしてさ。え?俺?俺のことはどうでもいいじゃん。・・・誰が予想できたよ?まさか、真中の一番前の席になるなんてさ。チョークの粉は飛んでくるし、センセの唾まで飛んでくるし。居眠りできないしノート覗き込まれるし隣は話の合いそうもない愚鈍そうな野郎だし。もう最低だよ。受験生にストレス溜めさせるなっつーの。・・・とまあ、学業優秀、スポーツそこそこ。明るくてすぐにクラスに馴染んだ彼女を俺が不思議に思っても仕方ないわけで。でも結構いい感じで。このまま、『明るくて楽しい、俺好みのクラスメイト』で1年間仲良くする予定だったのよ。あの日までは。










「・・・おい」


 5月の放課後。うっすらと赤くなりはじめた西の空をぼんやり眺めながら、1人学級日誌と格闘する俺――今日は日直だってのに、相方の女の子は学校休んじゃったのよ。おかげで黒板消しやら何やら、日直の仕事は全部1人でやらなきゃいけなかった――の頭の上で、低い声が響いた。


「・・・んあ?」

       
 声の主はすぐに田村ってわかったから、ちょっと笑わせてやろうかと思って、鼻の下にシャープペンシル挟んで顔を上げたけど・・・その表情はどこか硬くて、何か大変なことがあったんだな・・・ってすぐに察した。


「・・・何?」


 鼻の下からシャーペン抜いて、ちょっと緊張しながら聞き返す。教卓に腰掛ける奴の背中には、中身が入ったままのギターケース。奴の場合、中身はベースなんだけどって、そんなことは問題じゃない。問題なのは、今、何故ここにこの格好で田村がいるかだ。


「今日、練習じゃなかったのか?」


 1週間ほど前、6月半ばに行われる城南祭の、ステージ出演希望者のオーディションがあった。始業式での宣言通り、『ラディッシュ』というバンド名で参加し、そして本番の出演権を獲得した。メンバーは、俺と田村と宮田と崎やん。何故崎やんかって?貧乏高校生に、ドラムを叩ける奴なんかそうそういない。土下座して頼み込んで、『城南祭が終わったら真面目に受験勉強に取り組む』ってことで、趣味でドラム叩いてる崎やんに無理いって参加してもらったのだ。そして、今日は第二音楽室―――防音壁を貼ってあるから、ある程度大音量の音楽をかけたり演奏したりしても、外に漏れる事はほとんどない―――を借りての練習があるはずだったのだ。


「俺、日直で遅くなるって言ったじゃん。先に練習始め・・・」

「・・・宮田が切れた」


俺の言葉を遮った田村のそれ。耳に届いてから脳内変換し、意味を理解するまでに、ゆうに30秒はかかったと思う。宮田というのは、田村が愛用しているベースの弦・・・ではない。ラディッシュのボーカルだ。3年1組在籍の、バリバリ理系男――って、それは全然関係ないんだけど。


「何故に?」

「おまえがいないから」

「・・・俺のこと、そんなに愛してたの?宮田くん」

「その逆だ。おまえに対して切れた。すげー腹立ててな」


 ふざけた答えが返ってくるとは期待していなかったけど、ここまでマジな答えが返ってくることも予想してなかったぞ。それに、宮田が俺に対して切れたって・・・理由なんて全然思い浮かばない。日直で遅刻することが、奴にとってそんなに腹立たしいことなのか?それに、きちんと説明してあったはずだ。今日の遅刻理由は。昼休みに、奴の教室まで行って。お詫びの手土産まで持ってったのに。・・・チロルチョコ3個だけど。


「とにかく、とっとと日誌書き上げて音楽室行くぞ。あいつ切れすぎ。 怖くて、楽器置いてくることすら出来ないくらいだぜ?」

「・・・わかった」


 のんびり書いてた日誌に区切りをつけ、早々に教室を出る。先刻は宮田が怒る理由がわからないと言ったが、もしかしたら、1つだけあったかもしれない。それも、かなり最悪かもしれない理由が。その予感が当たれば、ラディッシュは解散の危機だ。


「でも、俺が行くまで宮田は大人しく待ってられるわけ?」

「知らねえよ。でもすげぇ剣幕だったぜ?あれで帰っちまったらあいつただのアホだぞ?ってか、 お前なんでそんなに怒らせたわけ?」

「・・・・・まぁ、怒らせたというか勝手に怒ったというか・・・お前にも原因は多少あると思うんだけど・・・」


 宮田を怒らせた理由を特定できるわけじゃないから、下手な事は言えない。


「崎やんは、来てるの?」

「いや、今日確か職員会議あるから」

「ふーん・・・」


  怒らせた理由とその対処法。色々シュミレーションして、脳内リハーサルを行う。こんな時は、妄想癖も役に立つと思うけど。実際やってみて上手くいくかといったら、その可能性は五分五分だ。特に今日は相手が悪いから。理系の宮田は、筋道の通った話にしか耳を貸さない。果たして、俺にそれができるか?・・・いや、答えはおそらく否だ。


「とにかく、城南祭のこと考えたらお前謝るべきだよ。 とりあえず自分が何やったかわかんなくても、宮田の機嫌取るのが先決だろ?」

「そのつもりだよ」


 田村に言いながら、第二音楽室の扉を・・・


「・・・やあ、宮田君・・・」


 題に音楽室の扉を開けようとして・・・偶然、部屋から出てきた宮田とご対面。ところが。俺が理由を聞く間も、とりあえず謝る間も与えてくれず、宮田はものすごい形相で叫んだ。


「もう、お前となんか音楽やらねぇよ」


と。























「マリ、あんまり遠くへ行くなよー」


 うれしそうに駆け出すマリは振り返ると、俺の大好きな笑顔で大きくうなずいた・・・なんてシチュエーションだったらどれだけ嬉しいことか。しかし、そんなこと現実にはありえない。なぜなら、マリは家の飼い犬だから。


「ワンッ」


 俺の言葉が分かったのか分からないのか。それでもマリはこっちを振り返り、一度吠えてから再び走り出す。一応俺の目の届くところで遊び始めたのを確認してから、小さくため息ついて川原で膝を抱え込んだ。

 あの後、第二音楽室の前で、宮田は数々の罵詈雑言を並べ立てて俺を侮辱して、肩を怒らせながら帰ってしまった。奴の言葉のひとつひとつは俺を落ち込ませるのには十分すぎるくらいの力を持っていて、田村にいろいろ慰められた気もするんだけど、その言葉はほとんど覚えていない。呆然としたまま帰途につき、家に着いた途端にマリの散歩を命じられ、着替える間もないままここ、室見川まで歩いてきたのである。

 今までも、マリの散歩ついでにこの川原で、ぼんやりと空想―――俺の場合は、妄想と言ったほうが正しいかもしれない―――に耽ることはあったけれど、こんなに落ち込んだ気分でここへ来るのは初めてだ。いつもは綺麗だと思う夕焼け空は、今日はとても哀しい。

 宮田のこと、田村のこと―――心配かけたままだから―――、そして、城南祭のステージのこと。考えなきゃいけないことは山積みで・・・逃げてしまいたいけれど、自分で撒いた種なのだから、自分で処理しなければならない。ああ、どうしてこんなことになったのだろう。


「ワンッ」


 はるか彼方から、マリが走ってくるのが見える。このまま、奴は俺に突進してくるに違いない。最近大きく・・・重くなった彼女の体当たり―――別名「犬アタック」とも言う―――は正面から受けるとかなりダメージを受ける。いつもはかわすところだけど、今日は甘んじて受け止めよう。不甲斐ない自分への罰として。

 ・・・とは言っても、やはりその威力はすごい。正面から激突されて、そのまま仰向けに倒れる。地面が草だったからそれほどダメージはないけれど。そのまま嬉しそうに尻尾をぶんぶん振りながら、マリは俺の顔を嘗め回す。ああもう、俺のこと大好きなのは嬉しいけど、今日くらいは悩む時間ちょうだいよ・・・なんて犬に言っても無理なお願い。よしよし・・・とマリの頭を撫で回していると、夕焼けのかすかな光が、急に翳った。


「・・・草野、くん?」


 土手の上から名前を呼ばれ、影を見る。そこには、制服姿の牧野サンが。逆光で表情はよく見えないけれど、きっと不思議そうな表情で、俺とマリを交互に見てるに違いない。


「何してるの?」


 川原へ続く斜面をゆっくりと降りながら、彼女がそう言った。でも俺は返事に詰まってしまって。『友達とケンカして落ち込んでました』なんて言えるはずない。だってかっこ悪いから。いや、かっこ悪いこと自体はいいんだけどさ、それを彼女に見られたくないってか・・・ね、分かるでしょ?男の子の気持ち。お気に入りの女の子の前では、いつだってかっこつけていたいじゃん。


「・・・犬の散歩」


 暫く考えて、やっと搾り出した言葉。散歩してたのは嘘じゃないし、でもこれ以上本当のことも言えなかったから。彼女に何か言われる前に、『牧野サンこそ』と聞き返す。


「あたし?ショコとユカと3人でアイスクリーム食べてたの。今は帰り道」

「へぇ・・・」


 あの、牧野サン知ってる?ガッコの校則では、一応買い食いや寄り道は禁止されてるんだよ・・・と言いたかったけど、止めた。今は冗談めかして言えるような元気、ないから。そっか・・・と相槌打って、寝そべったままマリの首抱きしめて、ふぅと小さくため息ひとつ。


「元気、ないね」

「・・・そう?」


  いつの間にか、隣に腰を降ろす彼女。スカート短いから、座って膝抱えると白い足が覗いて・・・もしかして、結構おいしいアングルじゃありません?ここでちょっと風が吹いてくれたら・・・って俺のバカっ!落ち込んでんだろ?悩んでんだろ??何バカな妄想に胸膨らませてんだよ???ああ、もう本当に自己嫌悪。このまま、地の底まで沈みこんでしまいたい。

「何か悩んでるの?あたしでよかったら・・・話、聞くよ?」






 予想外の牧野サンの言葉。びっくりして、思わず起き上がってしまった。もちろん、胸の上に乗っていたマリは、情けない鳴き声をあげながらごろりとひっくり返る。じっと見つめてしまった牧野サンの顔は穏やかで―――陽も沈みかけて、あまりよく見えなかったけれど―――目が合った瞬間、『あんまり役に立たないかもしれないけど』と少し笑った。


「・・・・・いいや。ありがと」


 ありがたい申し出だったけど、やっぱりそれは出来ない。だって、牧野サンに情けない姿見せたくないもん。それに、何かで聞いたことがある。『自分の好きな人が悩んでたら、どうにかしてその苦しみを取り除いてあげたいけれど、最初から悩みのある人を好きになったりしない』って。だから、好きな子に少しでも近づきたい場合、何か相談事を持ちかけるのは絶対に止めようって、そのとき思った。牧野サンのこと、これから好きになるかどうかはわからないけれど、だからこそ下手なことはしたくないっていうか・・・まあ、俺の勝手な独りよがりなんだけどさ。


「でも、すごく辛そうな顔してるよ?」

「・・・・」

「正直言って、草野くんには色々感謝してるから、少しでもお返ししたい・・・って思ってるんだよな。 だから、相談してくれたらとっても嬉しいし、今思ってること、話てくれるだけでも嬉しい」

「・・・どうして?何で俺に感謝してるの?」


 俯いて、地面の草をむしりながら尋ねた。彼女が俺に感謝してるなんて初耳だし、びっくりだ。でも、もしかして俺の口を開かせたいがための口からでまかせか?なんて思ってしまう汚い自分がいて。野サンが俺の悩み聞いたところで、得になることなんか何ひとつないのに。


「始業式の日に、話しかけてくれたから」

「・・・それだけ?」

「その後も、クラスの輪になじみやすいように、色々気を遣ってくれたから」

「・・・俺が?」


 彼女はきっと、何か勘違いをしているに違いない。俺が話し掛けたのは、自分の欲求―――転校生というレアなアイテムとお近づきになりたいとか、憧れの東京の話を聞きたいとか―――を満たすためだけであって、正直言って、彼女のことなんて、全然気遣ってなかった。ただ本当に、やりたいようにやっていただけなのに。


    


「うん。きっとね、草野くんは全然そんな風に思ってなかったと思う。 でもね、あたしはすごく嬉しかったの。突然転校が決まって、右も左もわからない土地に放り出されて。 東京の高校にいた時、あたし同じ学校に友達いなかったんだ。 だから友達の作り方なんてすっかり忘れちゃってて・・・すごく不安だったの」

「・・・・・」

「どうやって1年間過ごそうか・・・って心配してた時に、草野くん明るく話し掛けてくれて。 すごく嬉しかった。ショコやユカと仲良くなれたのも、草野くんのおかげ。 彼女たち、草野くんがあたしに話し掛けるところを見てて楽しそうだったからって、 声かけてきてくれたんだよ?」


 ちょっと・・・この話は不意打ちじゃない?彼女が俺に感謝してるってのもそうだけど、ちらっと出てきた彼女の背景。俺、牧野サンに対してすげー失礼なことしてた。福岡へ転校してきた理由勝手に妄想して、勝手に納得して。調子に乗って転校してきた理由なんか尋ねたことあったけど、きっと俺なんかが触れちゃいけないことだったんだ。


「だから、草野くんには本当に感謝してて・・・草野くんが困ってる時は、絶対助けてあげようと思ってたの」

「・・・・・」


 ここで彼女の申し出を断ることは簡単だけれど、そうしてしまったら、もう今までのように話すことが出来なくなるような気がした。彼女は俺を救いたいと言う。弱い部分を曝け出してもいいと言う。それならば、その言葉に甘えてみるのも悪くない。1人で悩んでいたって、どうせ答えなど出ないのだから―――いや、自分の出した答えに突き進む勇気が出ない、と言ったほうがいいだろう。


「・・・・・笑わずに聞いてくれると嬉しいんだけど」


 俺の言葉に、彼女がにっこり笑った・・・ような気がした。視線を合わせる勇気はなかったから本当かどうか確かめる術はないけれど。










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