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 自ら苦しむか、もしくは他人を苦しませるか。そのいずれかなしに恋愛は存在しない・・・
と言ったのは、フランスの作家、アンリ・ド・レニエだ。
今、僕は苦しみの渦中にある。嫉妬と自我。自分の大人気なさと我侭さ。徒に人を傷つける軽薄さ。
後悔と自責の念が頭の中で渦巻いて、どうしようもないほどの自己嫌悪に陥る。
なぜ知りたいと思うのだろう。なぜ、その理由を見つけることができないのだろう。
喩え様のない悶々とした感情。
心から排除してしまいたいと思うのだけれど、未熟な僕にはその術さえ見つけられない。
もう、このまま首を吊って死んでしまいたいとさえ思う。
だって、この世から僕の意識がなくなれば、もうこの苦しみに悩まされることはないから。
もしレニエがまだ生きていて、頭を抱えて悩む僕の隣にいたら、彼は僕の肩を叩きながら、間違いなくこう言うだろう。
『どうして頭を抱えて悩むんだい?この苦しみこそ恋の醍醐味じゃないか』

 これが恋の醍醐味?自分の愚かさを嫌というほど自覚させらされて、
彼女になかなか近づけないことを思い知らされて、打ちのめされることが?参った。完全降伏だ。
これが『恋の醍醐味』と言うのなら、きっと僕ほど恋愛に不向きな奴はいない。
弱虫と言われても、未熟者でも冷血漢でも、こんな気持ちを味わうくらいなら、人を愛することなんて知らなくていい。


 ・・・なんてえらそうなことをつらつらと言ってみたが、簡単に言えばただへこんでいるのである。
昨日は家に帰って、シャワー浴びて、晩御飯も食べずに不貞寝した。
ケータイがなること15回。全部田村だった。申し訳ないけど出る気になれなくて全部無視。
ショコとユカからメールも入ったけど、読まずに削除した。だって、読むの怖いんだもん。
きっと謝罪や心配の言葉なんだろうけどさ、もし俺を責めてる内容だったら・・・って考えると、開く勇気がでなくて。
ほんと、俺って最低。
そんなだからもちろん寝起き――時計を見たら昼近かった――も最悪で。
一日中ベッドにもぐったまま過ごしてやろうかと思ったけど、明日からテストだし。
成績下げて母親や崎やんに文句言われるのも嫌だし。仕方ないからもそもそと抜け出して、机に向かって勉強した。

 数学は嫌いじゃない。たった1つの答えを探して数字を操るのは意外に面白いし、
何より解けたときの爽快感は、他の教科じゃ味わえない。
例えてみればジグソーパズルだ。一致するピースをひとつひとつ探し出して、大きな1枚の絵を完成させる。

 カリカリと心地よく響くシャープペンシルの音をBGMにして、ひたすら問題を解いていく。と。


「まーっさむーねくんっ あーっそびーっましょっ」


 自転車のブレーキ音と共に、大きな声が響いた。
 ・・・おい、誰だよ。ガキみたいに人の名前を呼ぶのは。思わず力が抜けて、机に額をぶつけた。
部屋――2階である――の窓を開け、家に面した道路を見下ろせば、自転車に乗ったままガリガリくんをかじるテツヤの姿。
気配感じたのかな?2階を見上げて、俺の顔を見るなりにっと笑った。


「すげーカッコしてんな」


 余計なお世話だ。確かに寝起き姿――髪はボサボサで、Tシャツとスウェットのハーフパンツという体たらく――で、
顔も洗ってなくて、顔も不機嫌そうかもしれないけどさ、おまえに言われたくないよ。
何ていうの?その奇抜なカッコ。

髪を全部逆立てて、人相わからなくなるような濃いレンズのサングラスして。
白地に妙なアジアンチック柄プリントのタンクトップ着て、
ずり落ちそうなぶかぶかジーンズに、足元のビーチサンダル。
テツヤの体のあちこちで輝くのは、奴自慢のシルバーアクセ。今日もすごいのつけてるね。
・・・ごめん、俺にはよくわからない。


「どうせ朝起きてやることもなくてごろごろしてたんだろ?どっか行こうぜ」


 久しぶりに晴れたことだし、と言うテツヤ。確かに梅雨明けは間近で、空には大きな太陽が、燦々と光を注ぐ。
夏日だし、自転車で海まで足を伸ばして、波と戯れるのもいいと思うけど。


「・・・明日から試験だろ。そんなことしてる余裕ない」


 半分は本当。半分は嘘。余裕がないのは試験前だからじゃなくて、俺自身の問題。
なんか、この気分で海行ったら入水自殺とか考えちゃいそうな自分がいる。
でもそんな想像できるだけ、まだ平気なのかな、俺。


「じゃあ、僕の家に来て、数学なんてものを一緒に勉強しませんか?」


 ・・・こいつ、最初からそうするつもりだったくせに。でもその言い方がちょっとわざとらしくて、でも嫌味じゃなくて。
ほんと、憎めない奴。思わず笑っちゃったよ。


「報酬は?」

「食べかけのガリガリくん」

「いらねぇよ!」


 我侭だな・・・と言うテツヤに、どっちがだよ?!と突っ込んでみる。少し笑っただけでだいぶ気分が楽になって。


「コンビニでハーゲンダッツのアイスおごれ。それで数学3問教えてやる」


 すぐに準備するから、5分待っとけよ・・・と、部屋の窓を閉めた。

 テツヤが大人しく待ってるとは端から思っていない
――今日はいつの間にかうちにあがりこんで、母親とお茶を飲みながら談笑していた――し、
ハーゲンダッツを買ってくれる訳ないということも予測していた。
でもさ、これは反則だろ?誰が予想できるっての。テツヤの部屋に田村がいるなんて。

 何か飲むもん持ってくから、先に部屋行ってて・・・とテツヤに言われ、その言葉に何の疑いも持たず、鼻歌なんて歌いながら階段を昇る。
何度か入ったことのあるテツヤの部屋。
洋楽のCDたくさんあってさ、それなのに同じ男とは思えないほどに綺麗に片付いてて。
こんなところはちょっと尊敬。で、見慣れた扉を開けると。


「よぉ。気分はどうだ?」


 部屋の真中に置かれたテーブルに肩肘ついて、ノートを見つめてシャーペン動かしながら俺を出迎えたのは、他の誰でもない、田村だった。
俺のほうなんて全然見てないのに。なんで最初に部屋に入ったのがテツヤじゃなくて俺だって、ちゃんとわかるわけ?
そしたらまた以心伝心。


「テツヤの歩き方はどたばたうるさいんだよ。音ですぐわかる」


 やっぱりノートから視線をはずさずに言った。もう・・・俺こいつ嫌いかも。俺のこと何でもわかってやがる。
しかし、同じように俺にも田村のことがわかるのだ。
俺が部屋に入ってから、奴は一度もこっちを見ない。ということはだ。


「・・・付き合い長いからわかってると思うけど、俺すっげー怒ってるから、今」


 やはりそうですか。あーもう嫌だな。田村は心が広くて大人だ。
だから滅多なことでは腹を立てないけど・・・だ。こうなると手に負えない。少なくとも俺の手には。


「理由は・・・」

「わかってます」


 田村が言う前に答えた。心配して15回も電話くれたのに、全部無視したのは俺です。
昨日も勝手に腹立てて、八つ当たりして帰っちゃいました。
ユカとショコのメールも消しちゃいました。
心配してくれてる人のこと、全然思いやってませんでした。

 階段を上る大きな足音が聞こえる。うん、確かにこれは騒がしい。もう少し静かに上れないのか?って思うね。
階段を上れば、部屋に入ってくるわけであって・・・。
テツヤが勢いよく開けた部屋の扉が、未だ呆然と立ち尽くす俺の背中に直撃した。 
鈍い音を立てて、背中に激痛が走る。


「・・・・・・・・」


 予想外のことだから――どうして今日は予想外のことばかり起こるんだ――何の構えもしてなくて、
息が詰まって胸が苦しい。背中を押さえてうずくまる俺を見て、テツヤがカラカラと笑った。


「悪い悪い。まあ、そんなところに立ってるなんて思わないからさ。ほら、おまえ部屋入ってから何分経ってるよ。
 とっくに田村と雑談してると思ったさ」


 テーブルにグラスの載ったトレーを置いて、ほら・・・と何か差し出した。
・・・ハーゲンダッツ・ミニ。これでお茶を濁そうって魂胆なのね、テツヤくん。


「これでも食って、元気出せ。おまえ幸せだぞ?いくら田村が怒ったって言ったって、
 結局はおまえのこと心配してんだからさ。今日だって『英語教えてやるから草野呼びに行け』とかってさ。
 結局マサムネにはダッツ請求されちゃうしー。もしかして俺ってパシリ?」


 テツヤの言葉に驚いて、思わず田村を見た。
俺らのこと無視して問題解き続けてるけどさ、付き合い長いからちゃんとわかっちゃったよ。
奴の眉毛が、かすかに動いたこと。
なんかそれだけで嬉しくなっちゃって、思わず口元がほころんでしまった。
なんか、ごめんって素直に謝れちゃう気がして。
田村の肩叩いて悪かったなって言った。
そんな俺らの姿を見て、テツヤは大きなため息を吐く。ついでにグラスのコーラをぐびっと一気飲みして、


「いいよな、マサムネは・・・俺もユカちゃんに心配されてー!怒られてみてー!!」


 おい、別に腰に手を当てて叫ぶことじゃないだろ?しかも、おまえ毎日ユカに怒られてんじゃん。
心配されてるわけじゃないからアレだけどさ。


「おら、英語教えて欲しいんだろ?とっととノート出せ」


 テツヤの言葉を全く無視して、田村が言う。そうだ、俺もこいつの戯言に付き合ってる場合じゃなかった。


「おら、数学教えて欲しいんだろ?どの問題だよ?」


 田村の真似して言ってみた。そのときにふと思いついたことがあって。テツヤに聞いてみたいと思って。


「なあ、おまえあれだけユカに邪険に扱われて、どうしてそんなに元気でいられんの?」


 変なこと聞いたつもりはないけど、テツヤ目を真ん丸くしてさ、すげー驚いた顔して、
『何バカなこと言ってんの?』って、あきれた表情で俺を見た。


「好きだからに決まってんじゃん。だって、怒ったり怒鳴ったりしてるのだって、全部俺に向けてしてることなんだぜ?
 ユカちゃんが俺にかまってくれてんだぜ?こんなに嬉しいこと、あるか?」

「・・・それって嬉しいことなのか?」

「無視されるよりぜんぜんマシだろ?」


 ・・・うーん、ポジティブ・・・っていうのかね、こういうの。俺には絶対に真似できない。
ちょっとあっけにとられてる俺に気づいているのかいないのか、テツヤはそのまま言葉を続けた。

          

「考えてみろよ、ユカちゃんのこと考えるだけで楽しくて、ユカちゃんと話するだけでうれしくて、
 どんな些細なことでも、彼女のこと理解できちゃったりしたら、もう天にも昇る勢いだぜ?」

「・・・なんでユカのこと知りたいと思うんだ?」


 田村が、小さくため息ついたのが聞こえた。はは・・・呆れてるんだろ?自分でもそう思う。
テツヤに食ってかかることじゃないよな、これって。
でもさ、レニエの格言に感化されちゃった俺としては、少しでも胸につかえる塊を溶かしたいっていうかさ・・・ね。


「なんでってお前・・・」


 今度はテツヤが小さくため息。何?これってそんなに簡単な問題なわけ?
もしかして、こんなこともわからない俺って、人間失格?烙印押されちゃったから、俺絶対立ち直れない・・・。

 でも、テツヤの口から出た言葉は想像していたものとぜんぜん違って。俺、初めてこいつのこと尊敬した。



「好きだからに決まってんじゃん。好きだから知りたいんだよ。
 『知りたい』気持ちと『好き』って気持ちがどこでどう結びつくかはわかんないけどさ、
 でもわかんないから面白いんだろ?全部わかっちゃったらぜってー人生つまんないぜ?」

「・・・わからなくていいのか?」


 知りたいと思うことに、罪悪感を感じる必要はないのか?理由を突き詰める必要もないのか?


「わかんないから人間なんじゃん」


 すっげー単純な言葉。でも、この言葉のおかげで視界が開けた気がした。
知りたがっていいんだって。知りたくて苛々することは、決して悪いことじゃないんだって。


「悩めば悩むほどドツボにはまるの、お前の悪い癖。1人で深く悩むな」


 田村が、ポンと俺の肩を叩いた。・・・なんか、俺ってすっげー情けなくてダサいけど、もしかしてすげー幸せものかも。
昨日と同じ、目頭がちょっと熱くなる。でも、昨日とは全く違う気持ちだ。


「ささ、マサムネは何か達観できたところで。田村は心配事がひとつ減ったところで。
 そろそろ良い子の僕に勉強教える気はありませんか?」


 テツヤの言葉に、田村と顔を見合わせて笑った。
 止まない雨はない。今日は良い日だ。


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