22 自ら苦しむか、もしくは他人を苦しませるか。そのいずれかなしに恋愛は存在しない・・・ と言ったのは、フランスの作家、アンリ・ド・レニエだ。 今、僕は苦しみの渦中にある。嫉妬と自我。自分の大人気なさと我侭さ。徒に人を傷つける軽薄さ。 後悔と自責の念が頭の中で渦巻いて、どうしようもないほどの自己嫌悪に陥る。 なぜ知りたいと思うのだろう。なぜ、その理由を見つけることができないのだろう。 喩え様のない悶々とした感情。 心から排除してしまいたいと思うのだけれど、未熟な僕にはその術さえ見つけられない。 もう、このまま首を吊って死んでしまいたいとさえ思う。 だって、この世から僕の意識がなくなれば、もうこの苦しみに悩まされることはないから。 もしレニエがまだ生きていて、頭を抱えて悩む僕の隣にいたら、彼は僕の肩を叩きながら、間違いなくこう言うだろう。 『どうして頭を抱えて悩むんだい?この苦しみこそ恋の醍醐味じゃないか』 これが恋の醍醐味?自分の愚かさを嫌というほど自覚させらされて、 彼女になかなか近づけないことを思い知らされて、打ちのめされることが?参った。完全降伏だ。 これが『恋の醍醐味』と言うのなら、きっと僕ほど恋愛に不向きな奴はいない。 弱虫と言われても、未熟者でも冷血漢でも、こんな気持ちを味わうくらいなら、人を愛することなんて知らなくていい。 ・・・なんてえらそうなことをつらつらと言ってみたが、簡単に言えばただへこんでいるのである。 昨日は家に帰って、シャワー浴びて、晩御飯も食べずに不貞寝した。 ケータイがなること15回。全部田村だった。申し訳ないけど出る気になれなくて全部無視。 ショコとユカからメールも入ったけど、読まずに削除した。だって、読むの怖いんだもん。 きっと謝罪や心配の言葉なんだろうけどさ、もし俺を責めてる内容だったら・・・って考えると、開く勇気がでなくて。 ほんと、俺って最低。 そんなだからもちろん寝起き――時計を見たら昼近かった――も最悪で。 一日中ベッドにもぐったまま過ごしてやろうかと思ったけど、明日からテストだし。 成績下げて母親や崎やんに文句言われるのも嫌だし。仕方ないからもそもそと抜け出して、机に向かって勉強した。 数学は嫌いじゃない。たった1つの答えを探して数字を操るのは意外に面白いし、 何より解けたときの爽快感は、他の教科じゃ味わえない。 例えてみればジグソーパズルだ。一致するピースをひとつひとつ探し出して、大きな1枚の絵を完成させる。 カリカリと心地よく響くシャープペンシルの音をBGMにして、ひたすら問題を解いていく。と。 「まーっさむーねくんっ あーっそびーっましょっ」 自転車のブレーキ音と共に、大きな声が響いた。 ・・・おい、誰だよ。ガキみたいに人の名前を呼ぶのは。思わず力が抜けて、机に額をぶつけた。 部屋――2階である――の窓を開け、家に面した道路を見下ろせば、自転車に乗ったままガリガリくんをかじるテツヤの姿。 気配感じたのかな?2階を見上げて、俺の顔を見るなりにっと笑った。 「すげーカッコしてんな」 余計なお世話だ。確かに寝起き姿――髪はボサボサで、Tシャツとスウェットのハーフパンツという体たらく――で、 顔も洗ってなくて、顔も不機嫌そうかもしれないけどさ、おまえに言われたくないよ。 何ていうの?その奇抜なカッコ。 髪を全部逆立てて、人相わからなくなるような濃いレンズのサングラスして。 白地に妙なアジアンチック柄プリントのタンクトップ着て、 ずり落ちそうなぶかぶかジーンズに、足元のビーチサンダル。 テツヤの体のあちこちで輝くのは、奴自慢のシルバーアクセ。今日もすごいのつけてるね。 ・・・ごめん、俺にはよくわからない。 「どうせ朝起きてやることもなくてごろごろしてたんだろ?どっか行こうぜ」 久しぶりに晴れたことだし、と言うテツヤ。確かに梅雨明けは間近で、空には大きな太陽が、燦々と光を注ぐ。 夏日だし、自転車で海まで足を伸ばして、波と戯れるのもいいと思うけど。 「・・・明日から試験だろ。そんなことしてる余裕ない」 半分は本当。半分は嘘。余裕がないのは試験前だからじゃなくて、俺自身の問題。 なんか、この気分で海行ったら入水自殺とか考えちゃいそうな自分がいる。 でもそんな想像できるだけ、まだ平気なのかな、俺。 「じゃあ、僕の家に来て、数学なんてものを一緒に勉強しませんか?」 ・・・こいつ、最初からそうするつもりだったくせに。でもその言い方がちょっとわざとらしくて、でも嫌味じゃなくて。 ほんと、憎めない奴。思わず笑っちゃったよ。 「報酬は?」 「食べかけのガリガリくん」 「いらねぇよ!」 我侭だな・・・と言うテツヤに、どっちがだよ?!と突っ込んでみる。少し笑っただけでだいぶ気分が楽になって。 「コンビニでハーゲンダッツのアイスおごれ。それで数学3問教えてやる」 すぐに準備するから、5分待っとけよ・・・と、部屋の窓を閉めた。 テツヤが大人しく待ってるとは端から思っていない ――今日はいつの間にかうちにあがりこんで、母親とお茶を飲みながら談笑していた――し、 ハーゲンダッツを買ってくれる訳ないということも予測していた。 でもさ、これは反則だろ?誰が予想できるっての。テツヤの部屋に田村がいるなんて。 何か飲むもん持ってくから、先に部屋行ってて・・・とテツヤに言われ、その言葉に何の疑いも持たず、鼻歌なんて歌いながら階段を昇る。 何度か入ったことのあるテツヤの部屋。 洋楽のCDたくさんあってさ、それなのに同じ男とは思えないほどに綺麗に片付いてて。 こんなところはちょっと尊敬。で、見慣れた扉を開けると。 「よぉ。気分はどうだ?」 部屋の真中に置かれたテーブルに肩肘ついて、ノートを見つめてシャーペン動かしながら俺を出迎えたのは、他の誰でもない、田村だった。 俺のほうなんて全然見てないのに。なんで最初に部屋に入ったのがテツヤじゃなくて俺だって、ちゃんとわかるわけ? そしたらまた以心伝心。 「テツヤの歩き方はどたばたうるさいんだよ。音ですぐわかる」 やっぱりノートから視線をはずさずに言った。もう・・・俺こいつ嫌いかも。俺のこと何でもわかってやがる。 しかし、同じように俺にも田村のことがわかるのだ。 俺が部屋に入ってから、奴は一度もこっちを見ない。ということはだ。 「・・・付き合い長いからわかってると思うけど、俺すっげー怒ってるから、今」 やはりそうですか。あーもう嫌だな。田村は心が広くて大人だ。 だから滅多なことでは腹を立てないけど・・・だ。こうなると手に負えない。少なくとも俺の手には。 「理由は・・・」 「わかってます」 田村が言う前に答えた。心配して15回も電話くれたのに、全部無視したのは俺です。 昨日も勝手に腹立てて、八つ当たりして帰っちゃいました。 ユカとショコのメールも消しちゃいました。 心配してくれてる人のこと、全然思いやってませんでした。 階段を上る大きな足音が聞こえる。うん、確かにこれは騒がしい。もう少し静かに上れないのか?って思うね。 階段を上れば、部屋に入ってくるわけであって・・・。 テツヤが勢いよく開けた部屋の扉が、未だ呆然と立ち尽くす俺の背中に直撃した。 鈍い音を立てて、背中に激痛が走る。 「・・・・・・・・」 予想外のことだから――どうして今日は予想外のことばかり起こるんだ――何の構えもしてなくて、 息が詰まって胸が苦しい。背中を押さえてうずくまる俺を見て、テツヤがカラカラと笑った。 「悪い悪い。まあ、そんなところに立ってるなんて思わないからさ。ほら、おまえ部屋入ってから何分経ってるよ。 とっくに田村と雑談してると思ったさ」 テーブルにグラスの載ったトレーを置いて、ほら・・・と何か差し出した。 ・・・ハーゲンダッツ・ミニ。これでお茶を濁そうって魂胆なのね、テツヤくん。 「これでも食って、元気出せ。おまえ幸せだぞ?いくら田村が怒ったって言ったって、 結局はおまえのこと心配してんだからさ。今日だって『英語教えてやるから草野呼びに行け』とかってさ。 結局マサムネにはダッツ請求されちゃうしー。もしかして俺ってパシリ?」 テツヤの言葉に驚いて、思わず田村を見た。 俺らのこと無視して問題解き続けてるけどさ、付き合い長いからちゃんとわかっちゃったよ。 奴の眉毛が、かすかに動いたこと。 なんかそれだけで嬉しくなっちゃって、思わず口元がほころんでしまった。 なんか、ごめんって素直に謝れちゃう気がして。 田村の肩叩いて悪かったなって言った。 そんな俺らの姿を見て、テツヤは大きなため息を吐く。ついでにグラスのコーラをぐびっと一気飲みして、 「いいよな、マサムネは・・・俺もユカちゃんに心配されてー!怒られてみてー!!」 おい、別に腰に手を当てて叫ぶことじゃないだろ?しかも、おまえ毎日ユカに怒られてんじゃん。 心配されてるわけじゃないからアレだけどさ。 「おら、英語教えて欲しいんだろ?とっととノート出せ」 テツヤの言葉を全く無視して、田村が言う。そうだ、俺もこいつの戯言に付き合ってる場合じゃなかった。 「おら、数学教えて欲しいんだろ?どの問題だよ?」 田村の真似して言ってみた。そのときにふと思いついたことがあって。テツヤに聞いてみたいと思って。 「なあ、おまえあれだけユカに邪険に扱われて、どうしてそんなに元気でいられんの?」 変なこと聞いたつもりはないけど、テツヤ目を真ん丸くしてさ、すげー驚いた顔して、 『何バカなこと言ってんの?』って、あきれた表情で俺を見た。 「好きだからに決まってんじゃん。だって、怒ったり怒鳴ったりしてるのだって、全部俺に向けてしてることなんだぜ? ユカちゃんが俺にかまってくれてんだぜ?こんなに嬉しいこと、あるか?」 「・・・それって嬉しいことなのか?」 「無視されるよりぜんぜんマシだろ?」 ・・・うーん、ポジティブ・・・っていうのかね、こういうの。俺には絶対に真似できない。 ちょっとあっけにとられてる俺に気づいているのかいないのか、テツヤはそのまま言葉を続けた。 「考えてみろよ、ユカちゃんのこと考えるだけで楽しくて、ユカちゃんと話するだけでうれしくて、 どんな些細なことでも、彼女のこと理解できちゃったりしたら、もう天にも昇る勢いだぜ?」 「・・・なんでユカのこと知りたいと思うんだ?」 田村が、小さくため息ついたのが聞こえた。はは・・・呆れてるんだろ?自分でもそう思う。 テツヤに食ってかかることじゃないよな、これって。 でもさ、レニエの格言に感化されちゃった俺としては、少しでも胸につかえる塊を溶かしたいっていうかさ・・・ね。 「なんでってお前・・・」 今度はテツヤが小さくため息。何?これってそんなに簡単な問題なわけ? もしかして、こんなこともわからない俺って、人間失格?烙印押されちゃったから、俺絶対立ち直れない・・・。 でも、テツヤの口から出た言葉は想像していたものとぜんぜん違って。俺、初めてこいつのこと尊敬した。 「好きだからに決まってんじゃん。好きだから知りたいんだよ。 『知りたい』気持ちと『好き』って気持ちがどこでどう結びつくかはわかんないけどさ、 でもわかんないから面白いんだろ?全部わかっちゃったらぜってー人生つまんないぜ?」 「・・・わからなくていいのか?」 知りたいと思うことに、罪悪感を感じる必要はないのか?理由を突き詰める必要もないのか? 「わかんないから人間なんじゃん」 すっげー単純な言葉。でも、この言葉のおかげで視界が開けた気がした。 知りたがっていいんだって。知りたくて苛々することは、決して悪いことじゃないんだって。 「悩めば悩むほどドツボにはまるの、お前の悪い癖。1人で深く悩むな」 田村が、ポンと俺の肩を叩いた。・・・なんか、俺ってすっげー情けなくてダサいけど、もしかしてすげー幸せものかも。 昨日と同じ、目頭がちょっと熱くなる。でも、昨日とは全く違う気持ちだ。 「ささ、マサムネは何か達観できたところで。田村は心配事がひとつ減ったところで。 そろそろ良い子の僕に勉強教える気はありませんか?」 テツヤの言葉に、田村と顔を見合わせて笑った。 止まない雨はない。今日は良い日だ。 NEXT→ BGM♪スピッツ:タンポポ |