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 待ち合わせの場所は室見駅。待ち合わせの時間は午後10時。ダッフルコートを着てマフラーを巻いて、鼻歌気分で階段を降りる。もちろん、牧野サンとの約束を果たすために。リビングからテレビの声と、家族の笑い声が聞こえる。ドアを開けて中を覗くと、俺を除く一家4人が、テレビを囲んで団欒していた。微妙に仲間はずれにされた感が否めないけど、それは仕方ない。家族より愛を選んだのは、他の誰でもない、自分自身だ。と、バカな妄想をしてみる。3人掛けのソファには珍しく父さんと妹が並んでいた。父さんはこの上なくゴキゲンだけど・・・妹は、心なしかゴキゲンナナメな感じ。いやー・・・価値観の相違っていうか、お互いに入れ込む熱の違いっていうか、それって難しいね。  


「・・・あれー、アニキ出かけんの?」


 テレビ番組に大笑いしてたはずのバカ・・・弟が、涙を拭きながらくるりと振り返って俺に言った。その声に反応して、他の3人も視線を俺に向けた。・・・しかも同時に。こっそり覗いてこっそり出かけるつもりだったけど、どうやらそれは叶わぬ夢らしい。しかも、この中でもっとも見つかりたくないランキングナンバーワンに君臨するバカに声をかけられるなんて最悪だ。ここは無視して素通りしたいところだけど、こいつの事だ。無視したところで玄関先までついて来るだろう。


「・・・ちょっとね」


 試しにそう言ってみる。予想通り、間髪いれずに『どこへ?誰と?』と帰ってきた。しかも、俺がそれに答えず、うやむやにして出かけてしまうことを予測してか、ソファの上で胡坐をかいていたはずの足は、地面に降り立っていた。さて、困った。『田村と初詣』とごまかしてみようか。でも、逆にひっくり返されそうな気がする。何の根拠もないのに『田村さんとか言って、ホントは牧野サンなんでしょ?兄貴ってウソつくの下手だよなー』なんて、わざと言うんだよな。で、それを真に受けた母さんが『マサムネ、あんた本気なの?本気でこんな夜更けに、女の子と出かけるっていうの?!』なんて血相抱えて、妹が更に『初詣とか言ってるけど、ホントは全然違うところに行くんじゃないの?』なんて悪乗りするんだろうな。最後の父さんがどんな反応に出るか。妹の言葉を深く捕らえすぎて『お前もとうとう大人になるんだな』とか言い出したらどうしよう。・・・この人の場合、それもありえる。いっそのこと、妹の可愛げがないヨゴレ言葉にフリーズしてくれればいいのに。

 色々シミュレーションした結果、事実の誇大広告がいちばん良いんじゃないか、という結論に達する。自分が思うところの、ちょっとアンニュイな表情を作って、ふ・・・と小さなため息をつきながら『牧野サンと、ちょっと・・・・今日は帰らないかもしれない』と言う。それから少し間を置いて、顔を上げたら・・・・


「・・・・」  


 埴輪顔のみんなと目が合った。・・・って、俺、変なこと言った?っていうか、作戦間違えた?ものすごーく気まずい空気が漂うリビング。この場はどうしたら収拾できるんだ?とおろおろしているうちに、母さんの顔がどんどん白く・・・青くなる。え?何で?うろたえる俺に気付いたのか、バカ――弟と妹が顔を見合わせてにやりと笑う。あ、この顔ヤバい。絶対作戦失敗だ。と後悔するも束の間。


「・・・母さん、ウチの兄貴は不良兄貴だよ。受験生、しかもあと2週間でセンター試験だっていうのに、大晦日の夜に彼女とデートだって。しかも帰らないって。どこ行くつもりなんだろ・・・っていうか、何するつもりなんだろ」

バカ――弟が言うと、更に追い討ちをかけて

「3月になって、合格通知と一緒に婚姻届を手渡されたらどうする?その7ヵ月後にはパパ・・・みたいな?」

 なんて妹が続ける。・・・あ、今度は父さんの顔が青く・・・どす黒くなった。どうやら、妹の言葉がショックだったらしい。父さんの中ではいつまでも天真爛漫、天使のような妹だけど・・・実際はそうじゃない。兄の俺が言うのもなんだけど、こいつはヒツジの皮を被ったオオカミだ。いや、バケモノだ。オオカミなんて可愛いものじゃない。笑顔でも人を――父さんを殺せるし、睨みとどす黒いオーラでも人を――俺と弟を殺せる。ヤバい、こいつは本物の悪人だ。・・・と、そんなことを心の中で力説してる場合じゃない。呼吸することすら忘れてしまった両親を蘇生させなければ。


「・・・か、母さん?」

「・・・いつまでも子供だと思ってたけど、あんたもとうとう大人になるのね・・・」


 ・・・って待ってよ!話が勝手に進んでるんですけど。母さん、どこからハンカチ出してきたんだよ。ってか、なんで泣いてるの?俺が大人になるのが嬉しいの?それとも悲しいの?全然わかんないんですけど。


「大人になることはいいの。誰もが通る道ですもの。母さんだって、あんたと同じ年の頃は語りつくせぬロマンスがあったわよ・・・」


 ・・・母上様、今のは絶対問題発言ですよね。ただでさえどす黒くなってる父さんが、更に目をひん剥きましたよ。


「でもね、でも・・・あんたは、最低限の常識が分かる子だと思ってたわよ。少なくとも、母さんはそう言うつもりであんたを育ててきたのよ。それなのに、大晦日の夜、人様の大切なお嬢さんを連れ出して、帰らないなんて・・・それもセンター試験2週間前に・・・」

「いや、それは・・・」

「その上、3月には合格通知と婚姻届って・・・母さん、まだ花の40代前半なのよ?それなのにもう姑?もうおばあちゃん?もう初孫をこの腕に抱けるっていうの?」

「だからそれも・・・」

「確かに、あんたから田村くんのお姉さんの話を聞いたとき、初孫なんて可愛くて仕方ないでしょうね・・・って言ったわよ。でも、それはあくまでも客観的な意見であって、自分がそうなりたいかどうかって言ったらそれはまた別問題なのよ」

「だからその可能性はないから・・・」

「あんたが優しいのは分かるわ。分かったから・・・でも、母さんがいちばん欲しいのは、初孫じゃないのよ?とりあえず、とりあえず今はあんた達の合格通知が欲しいの。1年間頑張ってきたことが報われて欲しいの。分かる?その気持ち。孫はまだいいのよ」

 ・・・駄目だ、人の話を聞こうとしない。これは自然治癒に任せるしかないのか?母さんが駄目なら父さんを・・・と思った。けど。



「・・・マサムネ、お前が大人になるのは分かった。だけど父としてこれだけは言っておく。今日彼女と会う前に、絶対薬局に寄って行け。意味は分かるな?お前だけじゃない、彼女の問題でもあるんだぞ?」


 いつの間にか顔色も良くなり、ひん剥いた目も通常に戻りつつあるマイファザーが、俺の両肩をがっしりと掴んで顔を近づける。・・・って、それちょっと近すぎ。


「・・・父さんまで・・・」

「っていうか、父さんはお前が大人になるならないよりも、もっとショックなことがあったんだよ・・・いま、ここで。しかもダブルで・・・」


 ああはいはい。妹のヨゴレ具合を目の当たりにしたのと、母さんのロマンス発言ね。更に近づく父さんの目には・・・うっすら涙が浮かんでいた。と思ったら、突然絨毯の上に突っ伏して泣き出した。・・・泣き出したように見えた。


「父さんだって、父さんだってロマンスのひとつやふたつやみっつやよっつあったんだぞ!でも、そんなこと母さんに言ったら傷つくかな?とか悲しむかな?とか色々考えて、口には出さなかったんだ。それなのに母さんは・・・」

「・・・・・」

「しかも、末っ子でしかも女の子で、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた自分の娘が、婚姻届とか7ヵ月後とかパパとか言うし・・・そんな言葉、教えた覚えもなければこれからもずっと知らずにいて欲しかったのに・・・ピュアとか純粋とか無垢とか、そういう言葉が似合う子でいて欲しかったのに・・・」


 ・・・もう、制御不能だ。制御不能夫婦だ。なんか、出かける前に脱力。自分の親が、子供の冗談にここまで翻弄されるなんて。兄妹3人で顔を見合わせる。俺はバカと妹に非難の視線を、妹はバカに非難と軽蔑の視線をそれぞれ送りながら。


「・・・俺、悪くないし」

「お前が悪いだろ。全て」

「兄貴が見栄を張るからだろ。ちょっとからかってやろうと思っただけなのに」



「お前の場合、それがちょっとじゃないんだよ」


 っていうか、見破られてたのか。それはそれでムカつく。せっかく誇大広告してみたのに。 

 腕時計を見ると、既に9時45分。やばい、そろそろ家を出ないと待ち合わせの時間に間に合わない。ソファに座ったまま、小さくなって涙を拭く母さんと、未だ突っ伏せて、拳を握って絨毯を叩く父を尻目に、そっとリビングを出る。理性崩壊を放置して出かけるのは忍びないけれど、こちらにはこちらの都合があるので仕方ない。


「じゃ、後は任せたから。よろしく!」


 ドアを閉めながら、年下コンビにひらひらと手を振る。兄ちゃんは戦線離脱。イチヌケだ。ずるいぞ!という言葉が聞こえてくるような気がするけど・・・気がするだけにしておこう。お気に入りのスニーカーを靴箱から取り出し、紐を締めなおす。リビングから弟の『だからさっきのは全部ウソだから。兄貴は初詣に行ったら帰ってくるから。まだ大人にはならないから』という声が聞こえてきたので、俺は思わずにんまりとしてしまった。あいつにも弱点があったようだ。その声は、いつもの飄々としたものじゃなく、案外切羽詰ったものだったから。・・・その後に、いつもと変わらぬ妹の声で『正確には、ならないんじゃなくてなれないんだけどね』と続いたことは・・・聞こえなかったことにしよう。



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BGM♪スピッツ:ナンプラー日和