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「・・・あ、俺、もしかしてすっげーイイトコ邪魔した?」


 ドアを開けた直井と、何かを言いかけた牧野サンと、同時に2つの出来事が起こり、少しパニック気味の俺。一瞬、3人が3人の顔色をうかがいながらの沈黙。それを破ったのは、続いて部屋から出てきた亜門と、スニーカーを引っ掛けた坂口さんだった。最初に出てきた、俺にいつも優しくない男は、ドアにもたれかかってにやりと笑い、『少しは精進できたか受験生?』と意地悪く聞く。


「2人とも頑張ったよね。今日1日で、解けるようになった問題たくさんあるでしょ?」


 最後までいじめるのはやめましょうよ・・・とやんわり亜門を諭す坂口さんは、やっぱりいつもの坂口さんで。勉強中のとげとげしい空気や、まがまがしいオーラは何処へやら。ただただ、温和な空気を纏いながらにこりと笑った。『英語はとにかく単語力だ』と最後の最後まで念を押してくださった亜問題先生にお礼を言うと、坂口さんを先頭に、1列になって階段を降りる。静かな夜に、カツンカツンという足音が響いて・・・これって、実は結構なご近所迷惑じゃないの?なんて思ったりして。

 階段を降りきって、俺たち受験生3人組みは、何故か坂口さんの前で1列に並ぶ。今日の礼を言い、深々と頭を下げると、『少しはお役に立てたかな?』と笑って言った。怖かったけど、怖かったけど・・・良いセンセイだったと思う。うん。今まで苦手だったところも、結構簡単だって気付けたし。今度の模試、160点も夢じゃないかもしれない。いや、マジで。直井もそれ――もちろん、160点の件ではなく、わかりやすかった、ということだ――は思ったらしく、最後まで丁寧に『ありがとうございました』と頭を下げ続けていた。


「・・・ってさ、何でお前らいるの?先に帰ればよかったのに」


 坂口さんが見えなくなるまでずっと頭を下げていた直井が、突然俺たちを見てそう言った。って、直井を待ってること以外に、帰らない理由なんてないんですけど・・・と言いかけて、急いで口をつぐむ。そっか、直井は知らないんだよな。牧野サンも、このアパートに住んでること。この場をどう切り抜けたらいいんだろう?と牧野サンをちらりと見る。彼女も同じように俺を見てて。ちょっと気まずそうに笑うと、『あたしも、このアパートに住んでるの』と言った。


「・・・そうなの?」

「うん。亜門の家の隣に」

「あ、そうなんだ・・・じゃあ、もしかして草野って俺のこと待っててくれたわけ?」


 ちょっと嬉しいかもー、と、抱きついてほっぺたに唇をつけようとする直井の顔を、本気で突き放す。残念ながら、そんな趣味俺にはない。キスのひとつやふたつ・・・と問題発言をぶちかまして俺と牧野サンを絶句させた後、あれ?と言葉を続けた。


「でも、ここってワンルームじゃなかったっけ?」


 もう、爆弾発言第二弾、って感じだ。こいつ、どうして変なところで鋭いんだよ。1人で慌てふためく俺だけど、当の本人牧野サンは、何故か落ち着き払ってて。さっきみたいに軽く苦笑すると――して見せただけかもしれないけど――『最近引っ越してきたんだよ』と言った。


「父親の仕事の関係で福岡に来たんだけどね・・・何か、こっちにくる前の仕事でミスしたとかって、9月に東京に呼び戻されちゃった。流石に、受験半年前にもう1回転校する勇気はなくてさ・・・わがまま言って、あたしだけこっちに残してもらったの」

「へえ・・・何か、複雑な理由だね・・・」

「そう?至極シンプルだと思うけど」


 神妙そうに顔を顰める直井と、あっけらかんと笑う牧野サン。その2人は全く対照的で、俺は一体どうしたらいいんだろうと思う。下手に口を挟むと、せっかく牧野サンが吐いてる嘘が台無しになりそうだから、黙っておくのが得策だろうけど。2人の顔色伺って、ここだ!というタイミングで『そろそろ帰ろう』と直井に言う。俺にしては珍しく、そのタイミングは合っていたらしく、直井は不思議がることもなく『そうだな』と頷いた。


「2人とも気をつけて帰ってね」

「牧野サンも、気をつけてね」

「・・・って、階段上ったらすぐ部屋じゃん。いやー草野くん、心配性なんだからぁ♪」


 バカは無視して、牧野サンにバイバイ、と手を振る。そして気付く。さっき何か言いかけていたこと。直井や亜門が出てきたことでうやむやになっちゃったけど、もしかしたら何か言いたかったのかな・・・って。呼び止めようと声をかけるけど、牧野サンは既に部屋に向かっていて。俺に気付いてくれたけど、にっこり笑って『また明日ね』と言われてしまった。それは『明日話すね』という意味なのか、ただ『明日また学校で』という意味なのか、そこまで読み取ることはできなかった。


「さて、俺たちも帰ろうぜ。夜は短い日はまた昇る・・・」


 また憂鬱なガッコだよ・・・と肩を落とす直井に、俺だって憂鬱だよ、と意味不明の慰めをかける。家に帰ったら、宿題やらなきゃいけないんだった。ホントは今日持ってきたんだけど、厳しい亜門大先生に『今日はセンター模試の勉強だ』って冷たく言われて、気の弱い俺は、それでも強引に宿題を広げることなんてできなかったよ。言われたとおり、過去問題集やら対策問題集やらを広げるだけのしがない受験生に成り下がったよ。


「それより、あの馬鹿げた約束どうすんだよ?本気で守るわけじゃないだろ?」


 さっき牧野サンと話してたことを思い出して、直井に問いただしてみる。さっきの話聞いてさ、こいつはどうでも良いとして、あやのちゃんが可哀想になってきたよ。心配して突き放したら、何故か別れ話だもん。しかもお互い望んでないのに。引くに引けない男――直井の意地もわからなくはないけどさ、でもやっぱり、ここはあやのちゃんの味方になりたいと思うよな。

 アパートの隅、通行人の邪魔にならないように停めておいた自転車の鍵を取りながら、『あやのちゃんに謝れば?』と言ってみる。聞いているんだか聞いていないんだから、直井も同じようにチェーンを取りながら、背中を見せたままあいまいに頷いた。それは肯定なのか否定なのか、後ろ姿だけじゃ何とも判断できないけれど。なんか、このままじゃ逃げられるような気がして、そのまま言葉を続ける。牧野サンに聞いたこととか、どれだけ無謀な事しようとしてるかって事とか。


「別に、700点取れなくたっていいじゃん。それに向かって頑張ったっていう事実だけで。あやのちゃんだってきっと、お前が突然そんな点数取れるなんて思ってないだろうし、お前だって実際自信ないんだろ?そうでなきゃ、今日、部屋に入る前にあんな風に弱気になったりしないよな」

「・・・それはわかってるけどさ」


 小さく呟いて振り向いた直井は、いつもとはどこか違う真面目な表情をしていて。見慣れないその顔に、思わず緊張した。


「・・・でも、男としてはやっぱりカッコいいとこ見せたいじゃん?まぐれでも何でも取れちゃったら、もしかしたらあやのっち、『ああん直井くんったらやるときはやるんだから!カッコいいわ!男らしいわ!!』なんて抱きついてくれるかもしれないし」


         

 らしくない直井に緊張したのに、次の瞬間にはやっぱりいつものこいつに戻っちゃって。ガクン・・・と腰砕け状態になったと同時に、めちゃくちゃ腹立たしくなった。一瞬でもこいつのために本気で悩んで損した。いや、マジで。ホントに、あやのちゃんと別れることになったら辛いから・・・って、まるで自分の事のように考えちゃったのに。俺の怒りを知ってか知らずか、チェーンをハンドルに括りつけ、出発完了のポーズを取る。


「じゃ、俺帰るわ。お前も気をつけて帰れよ。っつか、俺が帰った後、牧野さんの部屋に忍び込むとか、そういうのナシだからな。俺より先にオトナになっちゃったお前とか見たくないから」


 じゃあね〜・・・と自転車に跨り、明るく手を振りながら走り始める直井の後ろ姿をポカンと見つめる。そして、奴が言い残した『オトナになっちゃった』という言葉の意味にようやく気付き、1人頬を赤く染めながら『バカ直井!』と小さな声で叫ぶのだった。



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