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「あれ?」


 坂口さんの小さな声が部屋に響いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。隣に座る牧野サンはうっすら額に汗し、正面に座る亜門の表情は微妙に引きつっている。問題集を解くふりをしてちらりと盗み見すると、少し離れたダイニングテーブルで数学の問題集を開く直井の背中がびくりと跳ねた。そして、その正面に座る坂口さんは、いつものように、温和ににっこり笑った・・・けれど、今はその笑顔が・・・怖い。

    

「直井くん、この公式、さっき説明したよね?もしかして聞いてなかった?」

「い、いや、ちゃんと聞いてました!」

「そうだよね、一生懸命頷いてたよね。さっき、その公式使った計算式も解けたよね。それなのに、どうしてこの問題解くのに、その公式使わないのかな?計算だって文章題だって、やることは変わらないから、って言ったはずだよ?」

「・・・・あっ」


 どうしてだろう、口調や声はものすごく穏やかなのに、ついでに表情もすっごく穏やかなのに、言葉のひとつひとつにこんなにも緊張しちゃうのは。ああ、背中だけしか見えない直井が、額に脂汗浮かべながら必死に解き直している様がありありと想像できる。その表情はきっと泣く寸前で、下手したら目に涙しているかも知れない。


「・・・?」


 ヤツの背中を見て『ご愁傷様・・・』と念――・・・とは言わないよな、この場合――を送っていると、ふと坂口さんと目が合う。俺の顔を見てにっこり笑って『何か?』と言う坂口さんは、いつもと同じようで同じじゃない。温和な笑顔・・・だと思ってたけど、今気付いた。目が笑ってないんだ。いつもニコニコしてるから気付かなかったけど、坂口さんって結構鋭い目してんだよね。


「な、何もありません・・・」


 怯える子犬のようにプルプルと首を振って、自分の問題集――英語だ――に視線を戻す。ああ、怖かった。ホントに怖かった。あの目に喰われる!と、思った。


「人の事気にしてる余裕があるなら、1つでも多く単語覚えろ」


 亜門のゲンコが飛んできて、ふと我に返る。正気に戻って問題集をよく見ると、解いた問題は両手の指で余るほど。やばいじゃん、俺。勉強しに来たのに勉強してないなんて。人――直井の事、考えてる場合じゃない。

 何とか機嫌――というか、やる気を取り戻した直井を連れて亜門の部屋にお邪魔し、その数分後に坂口さんも到着した。最初は軽くコーヒーなんて飲みながら自己紹介やら談笑やらして、勉強に突入したんだけど。『お前ら、何の科目やりたいんだ?』と言った亜門に対し、俺と牧野サンは英語、直井は何でも!と答えた。そりゃ、とにかく700点取らなきゃいけない直井にとって、その答えは本当に素直な希望なんだろうけれど、教える側にとっては、それは難しい注文だ。2人して一瞬目を見合わせて、亜門が『俺が英語みるから、直井みてやって』と坂口さんに言った。

『え、坂口さんが直井をみるの?』

 俺のこと、酷い扱いする亜門じゃなくて、いつも温和で優しい坂口さんに教えてもらいたかった俺は、思わず声に出してそう言っちゃった。だって、せっかくなら気持ちよく勉強したいじゃん。『バカ』とか『タコ』とか『受験生の自覚あるのか?』とか貶されながら勉強したくないじゃん。だけど、当の2人は俺の言葉なんてサラリとスルーして、『俺こっちでやるから、お前ダイニングテーブル使え』『わかりました』なんてやり取りしてる。しかも、坂口さん直井ににっこり笑って

『何でもいいんだったら、点数取りやすい数学をやろうか?俺工学部だし、数学得意だから』

 って優しく言ってる。直井も、ちょっと安心した表情で頷いててさ・・・・あ、ちょっとジェラシーかも。俺も、あんな風に優しい先生に、手取り足取り教えてもらいたかった。でも、決まっちゃったもんは仕方ないから、覚悟を決めて小さく溜め息。その一部始終を牧野サンに見られて、そして笑われた。

『草野くんわかりやすいよ・・・亜門に教えてもらったら、間違える度に色々言われるからね・・・』

『・・・・・』

 想いっきり図星を突かれて、否定も肯定もできなかった。ちょっと恨めしい気持ちをこめて牧野サンを見ると、それが笑いに拍車をかけたみたいで。今度は手を叩いて大笑い。そこを亜門に見られて、『笑う暇があったら単語のひとつでも覚えろ!』と、どこかで聞いたことのあるセリフを言われた。

 ・・・という経緯を経て、今こうして勉強しているわけだが。いや、マジで驚いた。そして心底『坂口さんじゃなくて良かった!』と思った。だって、怖いんだもん!そりゃ、最初は羨ましいと思う程度に優しかったよ。亜門なんかよりずっと。『どれだけ数学苦手でも、コツさえ覚えておけば120点は必ず解けるから』なんて、ありがたいアドバイスまでしちゃってるんだもん。でもさ、ことわざでもあるじゃん、仏の顔も三度まで、って。まさしくそんな感じ。口調は変わらないんだけど、なんていうか、こう・・・・放出するオーラの色が違う、っていうの?最初は穏やかなピンクや黄色っぽい感じだったのが、だんだん赤やオレンジになって・・・今は、どす黒ささえ感じる。それが表情や声に出ないから、二倍怖い。



「・・・ねえ、坂口さんって店でもあんな感じなの?」


 解き終わった問題を採点してもらうために、問題集を差し出す。赤ペン持って俺を見ないまま、亜門は『余計な事を考えるな』とだけ言った。つれないヤツだな・・・と思ったところで『俺も驚いてんだよ』と、予想外の言葉が返ってきた。


「・・・へ?」

「坂口。半年一緒に仕事やってきて・・・ああいうの、初めて見た・・・っつか、怖すぎるだろ・・・・」

 アレじゃ直井も頭に入らないだろうな・・・と呟きながら、ちらりと後ろを振り返り、複雑そうな表情でそう言う。それにつられて、俺も思わず2人を見る。相変わらず温和――ーっぽい笑顔を浮かべ、変な色のオーラを放出する坂口さんと、完全に『借りてきた猫』状態の直井。あんなにカチンコチンになってたら、解ける問題も解けないんじゃないか、と思う。あんな状態で、ホントに700点突破なんてできるのか?俺、まるで自分の事みたいに不安になってきた。

 そんな親心――と、ちょっとかっこつけてみた――で直井の背中を見てたら、さっきみたいに坂口さんと目が合う。思わず、反射的に目を逸らしちゃった・・・けど。


「亜門さんもマサムネくんも、俺のこと見て・・・何かあったんですか?あ、交代します?」


 悪意も何も感じられない、爽やかな笑顔でそう言った。でも、でも・・・その言葉が、地獄行きを告げる閻魔大王の声に聞こえちゃったのは俺だけでしょうか。直井までこっち振り返って、目をぎらぎら、鼻息荒くして『場所、変わってやるぞ?!』と言う。そんなの、冗談じゃない。模試・・・はどうでもいいけど、遠足、しかも牧野サンと一緒に回れるかもしれない遠足を目の前にして、息絶えるのは御免被りたい。

「お、俺まだ英語・・・・」

「そうだな、ちょっと休憩して交代するか・・・・」

 俺の言葉を遮って、亜門が言う・・・って、ちょっと待て!休憩取ったら、俺が坂口さんに教わるのか?俺があのどす黒いオーラを一身で受け止めるのか?それは勘弁してくださいよ・・・という思いを込め、亜門の服の袖を掴む、けれど。


「あいつを友達だと思うなら諦めろ。お前が犠牲になれ。坂口の説明ちゃんと聞いて、出された問題の答えを間違えなきゃ生きて帰れる」


 と、無責任な事をのたまった。助けを求めるように牧野サンを見たけれど、『飲み物用意するね』なんてそそくさと立ち上がって、一瞬だけ俺を見た。その表情は思いっきり哀れみを浮かべていて、それだけで、俺を助ける気は皆無だ・・・ということを悟る。亜門に見放され、牧野サンに見放され、休憩が終わったら坂口さんの待つダイニングテーブルに着かなければならない俺の気分はまるで、死刑宣告された囚人のようだった・・・・・



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