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「昨日、天神から地下鉄乗って、考えてたんだけどさ・・・」


 着替えを済ませて一息ついてから、約束どおり・・・というか、帰る途中で誘われたとおり、妹と一緒にマリを連れて散歩に出る。『2人だけずるいなー。俺も連れてってよ』と帰ってからもずっとしつこく言ってたバカ――もとい弟は、出かける間際に『お前、もしかして本気で兄貴に恋しちゃってるわけ?』などと天地がひっくり返ってもありえない且つ想像するだに恐ろしいことをサラリと言ってのけ、妹に強烈なボディーブローを喰らっていた。その後、息絶えるムシのように、玄関先で痙攣しながら転がっていたことは言うまでもない。そして、下手なことしてこの小さな女王様を怒らせないようにしよう・・・と思ったことも。『あんた、何してるの?』と騒ぎを聞きつけて玄関先に来た母さんから逃げるように、俺と妹はそそくさと家をとび出したのは、少しだけ内緒だ。

 テクテクと無言で歩き続け、やってきた先は・・・室見川。俺にとって1週間前の出来事はまだ思い出したくない『生傷』で、ここに来るのはできれば避けたかったけど・・・散歩コースなんだから仕方ない。走って逃げ出したい気持ちを何とか抑えて、2人――正確には、1人と1匹だけど――の歩調に合わせて、できるだけ穏やかな表情を作りながら歩く。そんな中、妹がポツリと言葉をこぼした。


「・・・何を?」


 必死に平静を装ってそう問いかけると、妹はぴたりと足を止めて複雑そうな表情で俺を見た。はしゃいで今にも走り出しそうだったマリも、リードを引かれてその足を止める。急に止まったことが不服だったのか、それとも首輪が食い込んで苦しかったのか。犬のクセして不満げに振り向いたのが、その場の雰囲気にそぐわなくて、少し面白かった。

 なかなか口を開こうとしない妹と、言葉を待ち続ける俺。最初は気にならなかったんだけど、そのうちその間が気まずくなって、先に耐えられなくなった俺は1番近くにあったベンチに腰掛け、『今日、どうだった?』と聞く。


「・・・何が?」

「ガッコ。何か言われた?」

「昨日の今日だし、特に誰からも何も言われないよ。っていうか無理でしょ。あいつらが『実は草野には、俺以外の年上の彼氏がいた』なんて、わざわざ自分達の不利・・・っていうか、恥になるようなこと言いふらすとは思えないし。むしろ内緒にしときたいんじゃないの?昨日のアレを見てた人がいて、なおかつものすごい勢いで言いふらしてたんだったら話は別だけど」


 マリに『ちゃんとここに戻って来るんだよ?おうちに戻っちゃダメだからね、あたしと大兄が怒られるから』と言い聞かせた――犬が言葉を理解しているかどうかは別として――リードを離した妹は、苦笑いしながら俺の隣に座る。マリは嬉しそうに『ワン!』と返事をして、川辺に向かって一目散に走り出した。・・・あのはしゃぎ様を見ると、きちんと戻ってくるかどうか不安で仕方ない。前――宮田のことで落ち込んでたときのように、自分だけで家に帰っちゃうんじゃないか。それならまだマシだけど、犬のクセに帰巣本能なくて、迷子になって警察のご厄介に・・・なんていうのは死んでも御免だ。こういうことになったら、きっと責任は兄である俺に回ってくるんだろうなぁ・・・母さんに怒られ、父さんに怒られ、バカ――もとい弟にはバカにされるんだろう。唯一、味方になってくれそう・・・というか、張本人の妹ですら、そういう状況になったら俺を見捨てて『責める側』に寝返るだろう・・・って、こんな怖い妄想してたら、現実になりそうだから怖い。そろそろやめておこう。


「別に、ウチの学校で広がったうわさを打ち消したかったわけじゃないから、原中の先輩達に嫌がらせできれば、それでよかったの。人のウワサなんて49日で消えるしさ」

「・・・75日ですけど」

「・・・まあいいじゃん。細かいことは」


 ムードぶち壊さないでよね、と意味不明の文句を言いながら、俺を睨む。っていうか、何のムードだよ。彼氏と彼女のムードか?いやいや、ごっこ遊びは昨日で終わったはずだ。今こいつの隣に座る俺は、明らかに『兄』であるに違いない。いや、違いないと思いたい。でもここで突っ込む勇気のない俺は、ここぞとばかりに話題を変えようと、さっき妹が言いかけた言葉を、もう一度復唱した。


「で、何を考えたの」

「いやー・・・」


 この手の話は苦手なんだけど・・・なんて前置きをしたから、ようやく言う気になったか・・・なんて思ったけど、ここで訪れたのは再び沈黙。俺もしばらくは付き合ってみたけど・・・けど・・・


「沈黙長いよ!」


 根負けして、思わず突っ込んでしまった。そういえば、この後マリをこいつに託して、田村んちに行かなきゃいけないんだよ、俺は。CDコピーして待っててくれてんのに。・・・多分CDはエサで、行ったら最後、昨日あった事を根掘り葉掘り聞かれるんだろうけど。でもそれでも俺は田村の家に行きたいし、CDが欲しい!――って、ここまで思って気付いたけど、俺って田村に餌付けされてるもしくは洗脳されてる?『田村君の言うことは聞かなきゃいけないよ!』みたいな。そんな自分に気付いて、そして軽くショック。ガビーンという効果音背負って肩を落とすと、何を勘違いしたのか、妹が焦って『今言うから!』なんて言った。


「ほら、アレじゃん・・・」

「どれ?」

「紀伊国屋であった、大兄の同級生っていう女の人」

「・・・ああ」




 不可抗力とはいえ、また痛い所を突いてくださる我が妹。返事をした声のトーンが、ものすごく下がったこと、自分でもわかった。牧野サンの事ね。今1番触れられたくないポイントね。大きく息を吸って、これまた大きな溜息をついたら、『やっぱり・・・』と小さな声で妹が言った。


「・・・何が?」

「いや、前さ、大兄に彼女・・・ってか、好きな人がいる、みたいな話題で盛り上がってたでしょ?」


 大濠公園の花火大会のときとか、日本シリーズのときとか・・・と、思い当たる節をつらつらと並べる。確かに、そんなことで盛り上がってた時もあったよな。テツヤが母さんの前で牧野サンの名前出しちゃったり、ガッコ行く前、バカの一言で勘違いしちゃった母さんが、受験生だけど野球デートを許す!って騒いでみたり。つい最近のことなのに、こんなにも懐かしく思えるのは何故だろう。しかも、振られたのなんてほんの1週間前なのにね。


「昨日は自分のことで必死で、誰だかわかんないけど、もしかして、あの彼女ってその人だったのかな・・・って」


 俯いてた顔を上げて、ちらりと俺を見る。その一瞬で目が合っちゃって、何だかよくわかんないけど、2人で笑った。コレじゃ、認めたと同じだ、日曜日に会った人が牧野サンだって。小さく息吐いて『正解』って言うと、『わかりやすいね』なんて困った顔で言った。


「でもさ・・・そしたら大兄、ものすごく迷惑だったんじゃない?」

「・・・まあ、確かにね」


 既に振られてたから、そんなに関係ないとは思うけど、とは流石に言えなかった。もう一度、あの日の出来事を頭の中で反芻する。こいつの彼氏のふりして、お役御免だと思ったら牧野サンがいて、話しかけようとしたらこいつにジャマされて、しかも『彼女です』なんて自己紹介されて。俺の話・・・っていうか、言い訳も聞かずにくるりと向きを変えて、帰っちゃったこと。


「あたしたちのこと、誤解したよね・・・?」

「そりゃそうだろ」

「・・・今も、かなぁ?」

「・・・は?」


 今?何、それ。意味わかんない・・・と、俯いてた顔を上げて妹を見る。ものすごく気まずそうな表情を浮かべてあらぬ方向を見てたから、俺も同じようにそっちを見ると・・・そこには、大き目のトートバッグを肩にかけた牧野サンが、やっぱり気まずそうな表情を浮かべて立っていた・・・

        



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