空も飛べるはず



「・・・分かった。じゃ、明日」


 ガラスのテーブルに肩肘着きながら、携帯電話の「切」ボタンを押して、小さくため息。約束を反故されたことは正直気に入らないけど、細かいことをぐちぐち言うのは好きじゃない。仕方ないと諦めて、電話をベッドに投げ、立ち上がって部屋のドアを開ける。階下にいる母親を呼ぶと、『何?』とフライ返しを片手に顔を覗かせた。


「草野、今日来ないって」

「あら、どうして?」

「さあ。何か急用でもできたんじゃないの?」


 最近買った洋楽のCDをコピーしたやつを渡すついでに、日曜日のこと――妹と天神デートしたってやつだ――を聞きだそうと、『今日の夜、ウチに来るか?』と尋ねたのは、ほんの3時間前のこと。少し――いや、大分楽しみにしていただけに、『来られない』という突然の電話は予想外にショックで、つまらない。来られない理由を根堀り葉掘り聞き出してやろう・・・と一瞬思ったけれど、草野の声の後ろで、微かにくしゃみが聞こえたから・・・やめておいた。それは少し風変わりなくしゃみで、半年近くも隣で聞き続けていたものだったから。今更『誰か傍にいるのか?』なんて野暮なこときくほど、俺は鈍くない。どういういきさつで、どこで2人が一緒にいるのかは分からないけれど、草野の声で、何かいいことがあったであろうことは簡単に予測できる。ここは『物分かりの良い友人』って奴を演じて、電話を切ってやるのが得策だ。妹とのデートのことも、今日――今の牧野さんとのやり取りも、明日学校へ行く途中、もしくは帰り道で、全て聞き出してやればいいだけのことだ。


「そうなの?・・・草野くん来るって聞いてたから、晩御飯多めに作っちゃったのに・・・」

「来たとしても食ってくかどうかはわかんないだろ。いいよ、俺腹減ってるから」


 残念そうに肩を落とす母親が不憫でそう答えてみたけれど、全てが並べられたテーブルを想像しただけで、少しうんざりした。確かに腹は減ってるけど・・・高校男子の晩飯2人分は、流石に食べきれないだろう。でも、気を利かせて2人分用意してくれた母親の気持ちを考えると、やっぱり残すのは申し訳ない。


「もうすぐできるから」

「ん。俺ももうすぐひと段落するから。そしたら下に行くよ」


 母親の『頑張ってね』という言葉を背中に受けながら、部屋へ戻る。さっき電話をかけてきた誰かさんのおかげでありがたく頂いた宿題――数学50問という、数学嫌いの俺にとっては『拷問』に近い代物だ――の提出期限は明日。この1週間参考書と教科書片手に何とか解き続けてきたそれは、あと数問で終わりを迎える。そうしたら晩飯を食って、明日の授業の予習をして、昨日解いたセンター入試過去問題の間違えた単元を、もう一度復習しよう。まだまだ正答率が低く、見直す問題もたくさんある。来週あるセンター模試で、少しでも成績が伸びることを願いつつ、再びシャープペンシルを握った・・・と、そんな時にふと思う。さっきの電話の主は、果たしてきちんと覚えているのだろうか、模試が近々あるということを。

 心配は心配だけれど、他人のことを気にしていられるほど、自分に余裕があるわけじゃない。とりあえず、今自分ができることをやろう・・・と、問題集のページをめくると、ベッドの上に放り投げてあった携帯電話が、音を鳴らしながら振動する。折りたたみ式のそれを開くと、音の原因は着信ではなくメール。開くと、姉貴からだった。会いに行ってから既に1週間以上経つのに、今更お礼と近況報告のメールで。『無事に帰れたか?日曜日はありがとう。また遊びに来て』と、至極簡潔に書かれていた。無視しておきたいところだけどそうもいかず、『無事に帰れた。日曜日はこちらこそ。受験が終わって、気が向いたら遊びに行く。体大切に』と返事をした。メールに無駄がないのは、姉弟共通だ。色気は無いけれど、分かりやすくていいと思う。

 返信してから、姉貴に会ったのがもう1週間以上も前だということを今更実感する。久しぶりに会った彼女や旦那の顔や声は、未だしっかり脳裏に残っていて、簡単に思い返すことができるから、ほんの数日前のことだと、完全に思い違いを起こしていた。全く、時が経つのは早い。

 年寄り臭い能書きは別として、俺は端から疑問だった。昔からそうだ。両親は何故、自分たちと姉貴との間に、『俺』というクッションをいつも置きたがるのだろう・・・と。そして今回、大問題――かどうかは、本人たちの意識ひとつだけれど――を起こした姉貴の元に、俺が行かなければならなかったのだろう・・・と。

 俺にとって、姉貴は昔から特別な存在だった。型破りで、妙な行動力があって、頭の回転が速くて、人をその気にするのが上手い。小さい頃、近所のガキが集まれば、その中心にいるのは、いつも姉貴だった。姉貴が中心にいる限り、ごっこ遊びなんかの意見の相違でケンカするなんてことは、1度もなかった。それは大きくなってからも同じで。姉貴の周りには、必ず誰かがいる。性別も年齢も関係なく。いつも誰かの相談を受けて、いつも誰かを慰めていて。そんな風に人の懐に入るのは得意なくせに、自分の胸のうちを人に明かすのは苦手――というよりもむしろ嫌っていて。姉貴の気持ちを無視して、無理やりにそこへ入り込もうとする奴は、容赦なくはねつけた。笑顔でやんわりと、けれどこれ以上ない拒絶で。それでも彼女の周りに人が集まるのは、それを差し引いても彼女の傍が心地良いと、皆が思ったからだろう。

 俺にとって、姉貴の存在は邪魔であり、また必要でもあった。姉貴は忌々しい『比較対象』であると同時に、俺を隠してくれる『盾』でもあったから。『上の子は明るいのに、下の子は大人しい』とか、『お姉ちゃんはよくしゃべるのに、弟は静かだね』とか、親戚やら教師やらにいつも比べられて、幼心にも、姉貴と俺は違うんだからほっとけよ、と思うことも多々あった。比べられる度に、姉貴が嬉しそうに、にやりとするのが気に入らなかった。けれど、比較の内容はいつも彼女にとって有利なものばかりでもない。俺がした小さな悪戯が、彼女のした大きな悪戯――とは呼べないほどの悪事の陰に隠れ、怒られずに済んだことも多々ある。その度に『弟はいい子なのにお姉ちゃんは・・・』などと言われながら白い目で見られ、姉貴は不服そうに頬を膨らましていた。

 そんな姉貴との関係の中で、俺は『要領の良さ』ってやつを覚えて、『目立たない方法』ってやつを学んだ。草野はよく、俺の事を『オトナ』とか『親父くさい』とか言うけれど、それはあながち間違いじゃないと思う。そうあることが、俺の平穏無事な毎日の過ごし方だ、とも。あいつは俺と違ってめちゃくちゃ要領悪いし、変な意味で目立つし、隣で見ている分には楽しくていい。そして、どこか姉貴に似ている。もちろん、人の懐に入っていくのは苦手だし、人に相談してばかりで相談に乗ることは滅多にない。けれど人を懐に入れるのは上手い――本人は、全く意識していないだろう――し、あいつの周りには、笑顔が多い。・・・時々、宮田みたいな奴のトバッチリ受けてるけど。

 とにかく、そんな姉貴と折り合いつけて上手くやる術を知らないのか、昔から両親と姉貴の仲は、それほどよいものじゃなかった。いつも、俺を通して姉貴へ。俺を通して両親へ。姉貴の高校受験の時も、大学受験の時も、その場で交わされる会話の半分も理解できていないであろう俺が、『家族のことだから』という、理に適っているのか適っていないのか、いまいちよくわからない理由でその場に強制参加。そして今回のこと。本来なら父親なり母親なり、『オトナの事情』ってやつをちゃんとわかってる人が行くべきだったと思う。それなのに、白羽の矢が立ったのは、俺。姉貴への助言などできるはずもなく。ただ、ダンナとの馴れ初めやのろけなんかをひたすら聞かされて終わった。『子供をどうするのか』とか『大学はどうするのか』とか、おそらく両親が聞いて欲しいだろうことは何一つ口にすることができず。俺が来たから、と妙に張り切って夕食を作り、食べ終わったと同時にダウンした姉貴と、『義弟ができた!』と無意味にはしゃぎ、ビールを無茶飲みした挙句、食事中にぶっ倒れたダンナの介抱をしながら、何のために俺は来たんだろう・・・と首を傾げてしまった。

 姉貴へのメールはとうに送信し終わり、待ち受け画面――最初から内蔵されていた、色気も味気もない壁紙だ――に戻った携帯電話を握り締めたまま、ぼんやりとする。両親から姉貴へ伝えなければいけない言葉の半分も伝えられず、姉貴から両親へのメッセージは、ほとんど伝えることができず、妙にイライラしながら新幹線に乗ったことを覚えている。そして、ふと気付く。そのイライラややるせなさが、いつの間にか消えてしまっていたこと。






     


「ねえー!ご飯冷めちゃうわよーっ!」


 階下から聞こえる、母親の声。『今行く』と返事をして時計を見ると、草野との電話を切ってから、もう20分が過ぎていた。もう一度電話をベッドの上に投げて、ドアを開けて階段を降りる。そのイライラが消えた原因――おそらく、原因となったであろう、姉貴の元から帰った日曜日のことを思い出しながら。



BGM♪スピッツ:空も飛べるはず:part1

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