・・・どれくらい経ったのだろう。
 ひんやりと冷たい風が、路地を吹き抜けていく。
 時折、私の髪を乱していったけれど、それを正す気力もなかった。


 「・・・・・・・」


 頬を伝わる涙の味が、口の中に広がる。
 無造作に置かれている木箱に頭を預け、そっと目を閉じた。

 このまま眠ってしまったら、楽になれるかな・・・

 ふとそんなことが、脳裏を掠めた。










 もう、桂木さんには会えない
 どこまでも優しく私を受け入れようとしてくれた彼を、これ以上ないほど傷つけた

 
 彼は哀しいほどに優しいから、自分に対して憤りを感じてる
 
 私に手を出してしまったことに
 私を泣かせてしまったことに

 彼を、受け入れてあげたかった
 彼と、幸せになりたかった

 でも、心のどこかではわかってたんだ

 道明寺以外の人を、受け入れられるはずがないって・・・

 もし神様が私の前に現れて、二つの選択肢を与えてくれたとしても

 『道明寺のいない幸せ』よりも、『道明寺に出会う苦しさ』を選ぶから・・・



 体に吹き付ける風は冷たいし、なんだか身体はだるいし、このまま眠ってしまおうか・・・
 こうしていると、カナダで遭難しかけたときのことを思い出す。

 あの頃、私はあいつの気持ちを受け入れることができなくて、たくさん傷つけて・・・
 それでも、あいつは真っ直ぐに私を見てくれた。

 『誰でもいいから助けてほしい』

 そう思っていたけれど、心のどこかでは、道明寺が来てくれることを、切に願ってた。

 あの時も、こんな風にうとうととしながら、雪を踏みしめる足音を聞いたとき、本当に安心したっけ・・・

 

 カツン・・・



 石を踏みしめる足音に、あのカナダの夜がシンクロする。
 が、今確かに聞こえたその音は、明らかに雪を踏みしめるそれではない。
 

 「・・・・・」


 目に飛び込む、男物の靴。
 両腕でこわばる身体を抑えながら、徐々に目線を上げていく。


 「・・・・・」


 恐怖で、声が出なかった。
 あの手で触られる・・・そう考えただけで、目の前が真っ暗になった。



 「・・・ごめん・・・」


 
 何故、この人は戻ってきたんだろう・・・
 もう会えないと思ってたのに、もう会わないと思ってたのに・・・


 桂木さんの手が、私に向かって伸びる。
 

 いやだ・・・嫌だ・・・・


 近づくにつれ、体中に湧き上がる嫌悪感。
 これから逃れるには、どうしたらいいんだろう・・・
 逃げたくても、身体が動かない。
 足は完全にすくんでしまった。
 恐怖から、声すら出すことができない。






 道明寺・・・・・・










 徐々に私を覆う影。 
 耐え切れなくなって、きつく目を閉じた・・・・


















なぜ彼を求めたのだろう
そんな問に答えられないほど、私は愚かじゃない

道明寺に助けて欲しいから

近づく影から身を守る術を知らない
近づく影を追いやる力なんてない

でも、このまま桂木さんにつかまるわけにはいかない・・・・・





道明寺・・・

           






もう一度心で叫んだとき、自分を包む暖かい空気を感じたような気がした














私を覆うはずの影は、いつまでたっても降りてこない
私に触れるはずの腕は、いつまでたっても触れてこない

恐る恐る目を開ける。
広がる光景に、息が止まりそうになった。




「何やってんだよ・・・」




目の前に、人影がふたつ。
腕をひねり上げられ、驚愕の表情を浮かべる桂木さんと
腕をひねり上げる、無表情の道明寺。


ずっと、私の求めてた人・・・




桂木さんを通り過ぎて私を見る道明寺の瞳には、驚愕と悲しみが入り混じっていて

汚れかけた私は、道明寺の真っ直ぐな視線を受け止めることができなかった


いろいろな思いが交錯する

彼に会えた嬉しさ
こんな姿を見られた悔しさ、恥ずかしさ
桂木さんとの関係を疑われても仕方のない状況
そんなことに対する後ろめたさ

そして

何故ここにいるのか・・・という疑問


しかし、そんな複雑な考えも一気に飛んでしまう。



「牧野をこんな姿にした責任、どうとるつもりなんだ?」



つかみあげた腕を放し、今度は桂木さんの胸倉をつかみあげる。
一触即発の危険な状況。
道明寺の右手が、桂木さんめがけて振り上げられた・・・

だめ、殴らないで・・・

こんなことで、あんたの腕を汚さないで・・・



「だめっ・・・・・!」


自分でも驚いた。
動かないと思っていたはずの身体が動き、出ないと思っていた声が出る。
あたりに響き渡るほどの大音量。
道明寺も桂木さんも一瞬息を呑んで・・・動きを止めた。

乱れた服で,涙でぐちゃぐちゃの顔で、必死になって道明寺の足にしがみつく。
みっともないとか、かっこ悪いとか、そんな言葉は頭から消えてしまって
考えられるのは、道明寺の拳を止めることだけ。


「あたしは、大丈夫だから・・・」


牧野・・・と、彼の口から息がこぼれた。
目を大きく見開いて、私を見つめる。
私も、彼から視線をはずすことなく、真っ直ぐに道明寺だけを見つめる。


「牧野・・・」


同じ言葉が、違う声で耳に届いた。
それだけで身体がすくむ、身体が震える・・・


触れられたくない・・・・

目を閉じ、道明寺の足に思い切り抱きついた。


「・・・・・・」


突然、肩に感じる指の感触。
触れられているのに・・・嫌じゃない。
恐る恐る目を開けると、肩に触れるのは、道明寺のそれ。

ああ・・・
どうして、どうしてこの手だったら大丈夫なんだろう
どうして、この手をこんなにも愛しく感じるのだろう

安心して、嬉しくて。
自分でも理由の分からない涙が、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちる。


「牧野・・・」


道明寺は足に回されている私の腕を優しく解くと、そのまま自分も地面に座り込む。

そして、私の体にゆっくりとその腕を回した。
一瞬心臓が高鳴って、次第に懐かしい香りに包まれていく。



ああ・・・
そうだ、この感触だ
私が求めて止まなかったもの
ずっと欲しくてたまらなかったもの・・・
















どれくらいそうしていただろう。
次第に遠ざかる靴の音。



カツン カツン



それが小さくなっていく度に、私の体から力が抜けていく。
やがて全く聞こえなくなると、変わらず私を抱きしめる道明寺の首に腕を回した。
それを合図に、道明寺の腕にも力がこもる。
強く抱きしめられ、体中が痛くても、呼吸ができず苦しくても、それでも私は幸せだ
と思った。




もう一度、この腕に抱きしめられる奇跡を。











街灯の光すら届かない、薄汚れた路地裏。
繁華街の喧騒もなく、時の流れも感じられず、実世界から切り離されたような空間。


「・・・勝手なことすんなよ・・・」


道明寺の口から零れる言葉。
上等なスーツに身を包んでいるのにも関わらず、地面に座り込んで。
煤で汚れた廃ビルの壁にもたれて。

優しい息遣いからは想像し難い強い口調。
思わず彼の首から腕を離し、その表情を覗き込む。


「・・・どうみょ・・・」


強引に奪われる唇。
それはあまりに突然で、とっさに彼から離れようとしたけれど。
その強い力に私のそれが叶うはずがない。
あっさりとつかまり、唇をこじ開けられる。


「んん・・・・」


執拗に絡みつく舌
強く吸われる唇

もう決してすることのないと思っていた道明寺とのこの行為に、
私の中で眠りかけていた感情が、少しずつ覚醒していくのがわかった。



唇が離れたと同時に零れ落ちる吐息。
それが道明寺のものなのか私のものなのか、わからないほど頭の中はぐちゃぐちゃで

ただ1つわかることは、道明寺に抱かれたいと、体の底から切望していることだけ。


「・・・あいつに、何された?」


耳や首筋に唇を落としながら、掠れた声で尋ねる道明寺の息が、私の体を煽る。
指が、息が、唇が、道明寺の『何か』が触れただけで熱くなる。


「そんな泣きはらした目して、擦り傷たくさん作って、何もなかったわけじゃないだろ?」



その声は怒っているのか、それとも悲しんでいるのか。
どちらにしても私が道明寺を傷つけたのは、紛れもない事実だと、今更気付く。
勝手に別れを決めて、理由も言わずに彼の前から姿を消して、
そして、こんな姿で再会して。


「言えよ。何されたんだ?」


不意に、道明寺が私の体を浮かせた。
そのまま、あぐらをかく自分の上へと跨らせる。
足を開いたせいでスカートは上へ捲れあがってしまい、素足が外気に晒された。


「やだ・・・恥ずかしいじゃん」


「何が恥ずかしいんだよ?俺の知らない男とこんなところにいる方がよっぽど恥ずかしいだろ」


首への愛撫をやめようとしない道明寺から逃れようと、体を捩じらす。
が、体をきつく抱きすくめられ、私の些細な抵抗は全く効をなさない。
やがてその細い指は、ブラウスのボタンを、1つずつ外していく。
綺麗で優雅なその動きに、私は一瞬何が起こったのか理解できないでいた。


「ちょ・・・どうみょ・・・」


あっさりとふさがれた唇。
ボタンを全て外し終わったその指は、今度は背中に回る。
ぷちん・・・と、ホックを外す小さな音が響いた。


「あいつに触られたとこ、全部教えろよ」


私の顔をを覗き込む、まっすぐな瞳。
いつの間にか魅入ってしまう、端正な顔。

桂木さんに触られたところなんてないのに・・・

でも、道明寺に触れて欲しくて

こんな場所なのに
こんな時なのに

誰が来たっておかしくないこの状況で
誰に見られても文句の言えない状況で

それでも、道明寺に今、触れて欲しい・・・


「・・・道明寺が、触れたいところ・・・・」


そう呟いて、彼の肩に顔をうずめた。


「・・・嫌って言っても、止めないからな・・・」


小さくうなずき、彼の首筋に小さく跡を残す。
震える手でネクタイを緩め、シャツのボタンを外し、厚い胸に指を滑らした。



・・・道明寺・・・




小さな涙が、一粒落ちた。










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 空を見上げた 

 私を照らす優しい光は降り注ぐはずもなく

 ただ、冷たい闇だけが私の体を通り抜けていく

 頬を伝わる涙に気付いたとき

 何かが壊れた気がした・・・・・