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U Reminiscences
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・・・自分でもどうかしていると思った。

こんな時に、こんな場所で牧野を抱きしめてしまうなんて。

手が彼女の肩に触れた瞬間、瞬時に肩を強張らせた。

しまった・・・と後悔したよ。

でも、次の瞬間、俺に身体を預けてくれたね。

そんな些細な行為でどれだけ救われたことか。

鈍い牧野。

そんなこと、思いもよらないんだろう・・・




「・・・ごめん」




どれくらいそうしていただろうか、抱きしめていた牧野の身体をそっと離す。

同時に、遠く離れた場所で、スポットライトが一つ二つ点灯し、会場をほんのりと照らす。



「・・・・・」



軽く首を振りながら、無言で離れる牧野。

俯いているから、表情まではわからない。

でも、暗がりでもわかる、ほんのりと赤くなった肩を見て、少し安心した。

こんな風に牧野に触れたのは、

あの日―――非常階段で、強がる彼女の肩を抱いたのが最後だ。

司と別れた直後だったと思う。

一番辛いはずの彼女は、皆に心配をかけまいと気遣い、健気にもいつも笑顔を浮かべていたっけ。

それが却って痛々しくて、見ていられなかった。



静かに、荘厳に奏で始められる四重奏。

そして、ライトの向こう側から現われる、今日の主役。

らしくなく緊張する司の様子が、手に取るようにわかる。

表情が固い、歩き方がぎこちない。

見ている方がひやひやするよ。

でも、穏やかだ。

その隣で、サル女――滋だっけ?――が幸せそうに微笑んでいる姿も。


―――初めは、非難してやるつもりだった。

自分が辛いのに、回りを気にして笑ってるなんて、自虐行為も行き過ぎだ。

何故、人のために笑うの?

何故、自分のために泣かないの?

自分を押し殺してたどり着く場所は、暗く固い殻の中だって、彼女は気付こうとしない。

『絶望』というゴールを目指し始めていることに、彼女は気付いていない。

牧野がそんな方向に歩き始めている姿を見るのは・・・辛すぎる。

だから、思った。この道を歩き始めた牧野を救えるのは、世界中で俺だけなのだと。


彼らが会場の中央へ近づくに比例して大きくなる拍手。

俯いていた牧野も、何が起きているかを把握したようだ。

顔を上げ、拍手の向けられる方向へと顔を向けた。・・・胸が、痛い。

司の姿を見たら、牧野はどんな反応をする?


―――牧野に会って、勘違いしていただけだということに、嫌というほど打ちのめされた。

自分勝手な想像、エゴイズム。

彼女を救えるのは、彼女自身。牧野にとって俺はヒーローなんかじゃなく、ただの傍観者にすぎないって、

痛いほど思い知らされた。

人のために笑える女じゃない。

自分を捨ててまで我慢できるような女じゃない。

それは、わかりきっていたこと。

彼女の中で自分の存在を誇示するために躍起になっていた自分を、今では愛しいと思えるけれど。

滑稽だったよ、哀しいほどに。


壁際にいる俺たちは、司の歩く道のりからは程遠い。

それでも、司はすぐに俺を見つけた。

目が合うと、照れ臭そうな、それでいて少し安心したような表情で微笑んだ。

余裕あるふりしてると、あとが辛いよ・・・そんな気持ちを込めて、軽く手をあげる。


―――強がる牧野の肩を抱いて、初めて気付いた。

見苦しいほどの嫉妬を司に感じていたこと。

そして、俺と牧野は、絶対に相容れないということに。

もちろん、その事実を理解することも、受け入れることもできなかったけれど。


余計なお世話だよ・・・そう言いたげに、司が小さくごつくふりをした。

そして、気付いてしまった。俺の隣に立つ牧野に。

一瞬にして表情は消え、切れ長の瞳を大きく見開く。


きっと、司の瞳には、牧野以外何も映っていない。

その大きな瞳に牧野の姿だけを映し、大きな身体で、牧野だけを感じているんだ。

・・・牧野に視線を移すのが怖かった。

でも、確かめずにはいられなかった。


四年も前のことだから、彼女はとうの昔に気持ちを昇華させていて・・・なんて、勝手な願望だったね。

人の想いは、そんなに簡単に忘れられるものじゃない。

俺がそうだから。願望通りではなく、予想通りの牧野の表情。

司と同じように目を見開き、司と同じように、全身で彼を感じている。

完璧に作り上げられた、二人だけの世界。

俺の入り込む隙間はほんの一分もなくて、

封じ込めたはずの絶望感が、全身に重くのしかかる。

目を逸らしたいのに、牧野から目を逸らすことができない。

考えたくないことが、頭から離れない。

この場から立ち去りたいのに、足を動かすことすらできない。



 ―――俺は、何故ここにいるんだろう―――――



遥か遠くから、そんな自分の声が聞こえた。




































この大人数の中、何故、彼と視線が絡まったのか、わからない。

しかし、滋さんと肩を並べて歩く道明寺と目が合った瞬間、花沢類が隣にいることも、

置かれている状況も、何もかもが自分の中から消え去った。

真白な空間に存在するのは、私と彼。

他には、何一つない、誰一人いない。

記憶の中のドウミョウジと、遠くから私を見つめる道明寺は、同じようでどこか違う。

二人の『彼』が複雑に交錯し、私は妙なパラドックスに陥った。


 ・・・どうしてそんなところにいるの?

どうしてそんなに離れた場所で私を見つめているの?

早くこっちへおいでよ、私は、ここにいるよ・・・・・


手を伸ばそうとした瞬間、一段と大きくなった拍手で我に返る。

そして、愕然とした。私の隣にいるのは、花沢類。

そして道明寺の隣にいるのは、滋さん。

私は彼等を祝福する立場にいて、彼らは私に祝福されるべき場所に立つ。


こんなにも昔と違う二人なのに、何故こんな錯覚を起こしてしまったのだろう―――


道明寺から目を逸らす。

私と同じ立場の人々を眺め、そして気付いた。

彼の瞳が、あまりにも昔と変わらないから。

痛いほど真直ぐな、熱いまなざしで私を見つめるから。

やがて中央へとたどり着いた二人は、来賓への挨拶をする。

寄り添い、微笑みあう姿は、誰から見ても幸せそうだ。

大人びた道明寺と、女らしくなった滋さん。

違和感なく並ぶ二人は、本当に綺麗だった。


もう一度、私を見てよ、私に気付いてよ―――

どれだけ道明寺を見つめても、どれだけ彼に想いを飛ばしても、もう私を見ることはなかった。

私の知らない穏やかな笑顔で、私の知らない淡々とした口調で、優雅に言葉を運ぶ道明寺が、

とても遠く感じられた。

あれは、私の知る彼ではない。











 ―――あの雨の日の出来事は、一生忘れることはないだろう。



          




胸の痛みに泣きながら耐えた日々、ここから救い出して欲しくて手を伸ばしても、掴めるものは何もない。

幼すぎて、愚かで、『破局』に追い込むことしかできなかった自分を呪った。

住む世界が違う、価値観が違う、そんなこと、前からわかっていたはずなのに。

意見が衝突する度、お互いを罵るばかりで、受け入れるなんてこと、考えたことがなかった。

話し合うとか、妥協するとか、そんな言葉は頭になかった。

ただ、相手を非難するだけ。

未熟すぎたのだ、道明寺と恋をするには。


ふと、滋さんと目が合う。

一瞬驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに微笑んだ。

軽く手を振ってみたが、上手く笑えたかどうかはわからない。

彼女に対し、ものすごく申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

心から祝福できない、自分の器量の狭さに。

彼女はきっと、私がこの場所にいることを、純粋に喜んでくれている。

それなのに、私は彼女たちが一緒になることに、心のどこかで嫉妬している。

何故、急にこんな気持ちになったのだろう。

道明寺のことなど、とうの昔に忘れたものだと思っていたのに。


 ―――道明寺を想っては泣き、泣きながら彼を想う。


そんな矛盾した毎日を、どうやってやり過ごしてきたのか、もう忘れてしまった。

もう、二度と人を好きにならない、そう決意したこと以外は。


いつの間にか二人の挨拶は終わり、会場は当初の明るさへと戻った。

代わる代わる祝辞を述べる来賓に、丁寧に頭を下げる道明寺。


―――もう、彼が私に触れることはない。私を抱きしめることも。


そんな当たり前の現実に気付いたとき、どうしようもないほど悲しくなった。

あの瞳は、あの腕は。滋さんを守るために存在するのだと。


再び、道明寺と視線がぶつかる。

それと同時に、私を見つめる、もうひとつの視線に気付いた。―――花沢類。


きっと、悲しそうな表情をしているでしょう?

私が、道明寺のことを忘れられないって、思っているでしょう?

でも、そうじゃない。そうじゃないけれど・・・


だからといって、花沢類を振り返る勇気はない。

花沢類の視線を確かめる勇気も。

こうして、石のように身を硬くすることしか、この場をやり過ごす術はない。


自分の気持ちがわからない。

自分の感情をコントロールできない。

道明寺と花沢類、対照的な二つの視線にきつく縛られたような気がして、

私はどうしようもないほど泣きたくなった。





          
































ぎこちない二人の挨拶と、流暢な両親の挨拶が終わると、再び、会場内に平穏が戻った。

食事をする人、談笑を始める人、主役の二人を祝福する人。

そんな中、微動だにしない人影が、俺の視界にひとつ。

俯き加減で、身体を強張らせる牧野の姿に、かける言葉が見つからない。


 ―――何を考えているの?誰を想っているの?


牧野の肩を掴んで、声に出して叫びたかった。

でも、できなかった。

できるはずがなかった。

自分の指がズボンを掠めた時、ふとポケットの中の小さな箱の存在を思い出す。

今、牧野に渡したい、でも・・・・・躊躇したが、思い切って中身を取り出し、

俯いている彼女の首へとそっとかけた。



「花沢類!」



暫く呆然としていた牧野は、胸元にかけられた淡い赤の石に気付き、俺を振り返る。

不安と不信の入り混じった、複雑な表情。


      


「牧野に渡そうと思って、ずっと持ってたんだ。あげるよ」



「もらえないよ、こんな高そうなもの」



思っていた通りの答え。

一字一句違わないそれに、思わず苦笑がこみ上げる。

牧野、ボキャブラリー貧困だね、あんたのセリフ、すぐに想像できるよ。

だから、次の言葉の準備も容易にできる。



「もらってよ。俺が持ってても、どうせ捨てちゃうんだし。それに今日のドレスに良く似合うじゃん。

 それあった方が、胸元華やかでいいよ?」


―――受け取ってよ、お願いだから。

でないと、今日ここへ来た意味がなくなってしまう―――

そんな思いが通じたのか、暫くトパーズを見つめていた牧野が、苦笑しながら顔を上げた。



「・・・じゃあ、このパーティーの間だけ。胸元、自分でも淋しいと思ってたから」



ありがとう・・・と微笑む笑顔に、司に対する醜い嫉妬心が心に芽生える。


 ―――司、お前が恨めしいよ。俺がこんなに欲しいもの、まだ手に入れてるんだから。

お前が持ってちゃいけないもの、まだ手放してないんだから・・・



「つくし」



司への恨み言が喉まで出かかった瞬間、牧野を呼ぶ、聞きなれた声を耳にした。



「・・・滋さん・・・」



牧野の目が丸くなる。

穏やかな微笑で、俺たちの前に立つのは、今日の主役。

淡いラベンダー色のドレスが、目に眩しい。



「さっき挨拶の途中で見つけられて良かった。この人ごみの中じゃ、探すに探せないからね。

 ・・・来てくれるとは思わなかったから、すごく嬉しい・・・」



牧野の手をぎゅっと握った。

一瞬戸惑った表情で躊躇した彼女だったが、すぐに笑顔を浮かべ、手を握り返す。



「ううん、あたしの方こそ招待してくれてありがとう。滋さん、今日とってもステキだよ」



少しぎこちないながらも、少しずつ打ち解け始める二人。

言葉を交わすにつれ、会えなかった事による溝も埋まり始めたようだ。

俺は・・・きっとこの場に似つかわしくないね。

少し席をはずした方がいいのかもしれない。



「何か飲む物もらってくる。シャンパンでいいよね」



ありがとう・・・と言う彼女たちの言葉を背中で受けながら、ウェイターの元へと歩き始める。

そのとき、妙な胸騒ぎがしたのは、きっと気のせいじゃない・・・





























「えっと・・・」


滋さんに教えられたとおりに廊下を進んでいくのだが如何せん、屋敷が広すぎて、

どこをどう曲がれば良いのか、既にわからない。



「さっき通った気がするんだけど・・・合ってるよね?」



恥ずかしいとは思うのだが、口から出る独り言を止められない。

声に出して確認するだけで、自分は道を間違えていないと確信できるから不思議だ。

・・・あくまでも、自分の中でだけだが。


しかし、滋さんは何故私にこんなことを頼んだのだろう。


『東のバルコニーに、人が待ってるの。ほら、私パーティーの主役でしょ?

 抜け出せないからさ、つくしそれを伝えてきてくれないかな?』


花沢類がシャンパンを取りに行くや否や、滋さんは私の耳元でそうささやいた。

その時は深く考えずに承諾したが、今思えば不思議で仕方がない。

「主役だから抜け出せない」という理由はわかる。

しかし、それを伝えに行くのは、私でなくても良かったのではないか。


とは言いつつも、あの場を離れることができたことに、少し安堵していることは隠せない。

用事を済ませるまでは、花沢類の視線からも、道明寺の視線からも逃れることができるのだから。

バルコニーでの用事を済ませたら、夜の風に吹かれながら、

自分の気持ちについて考えてみるのもいいかもしれない。

自分の気持ちを持て余す私、宙ぶらりんな私。

こんな私が、あの二人から、先刻のような視線で見つめられて良いはずが無い。

そんな資格、これっぽっちも無いのだ。















どれくらい迷ったのだろう、重々しいガラスの扉と、それに続くバルコニーの柵が見えたとき、

心のそこから安堵した。


滋さんを待っている未だ見ぬ人のためにも、急がなくてはいけない。

毛並みの長すぎる絨毯に何度も足をとられながら、私は早足で扉へと駆け寄った。



「んしょ・・・っと」



大きな扉は、見た目以上に重い。

力いっぱい押し開けると、心地よい風が私を包んだ。

軽く乱れた前髪を戻しながら、バルコニーへと足を進める。

深い紺色の空と、煌々とする星。明暗のコントラストの中に、一筋の白い煙が浮かび上がる。


・・・なんだろう?煙の漂う方向に目を向け、そして時間が止まった。

この後ろ姿、この雰囲気・・・・・


すらりとした長身のシルエット。

一度見たら忘れられない、くるくる天然パーマの髪。

胸に手をあて、何度も深呼吸した。

落ち着け、落ち着け・・・つくし、とんでもないこと考えてるでしょ?

あの後ろ姿が、道明寺だ・・・なんて、バカなこと思ってるでしょ?

しかし、柔らかく吹いた風が、その思いが間違っていないと確信させた。

鼻に心地よい、コロンの香り。忘れられない香り。

声をかけることも、そこから立ち去ることもできず、ただ呆然と立ち尽くす。

私は、どうしたらいい?このまま背を向け、何もなかったかのように立ち去るべきなのか、

それとも、彼に声をかけるべきなのか。

停止した思考回路を目覚めさせようと、ぎゅっと目を閉じて頭を振る。

そんな私の気配を感じたのか、彼がゆっくりと振り返る。

驚いたように目を丸くして、少し恥ずかしそうにはにかんで、久しぶりだな・・・と手を軽くあげた。

その動作の一部始終を見ていた私は、きっとものすごく間抜けな顔をしていたと思う。






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